メッセージ要約 2022724

マタイ福音書2636節から46節 「ゲッセマネの祈り」

 

26:36それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 

26:37それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。 

26:38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 

26:39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 

26:40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 

26:41誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 

26:42イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」 

26:43イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。 

26:44イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。 

26:45それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。 

26:46立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

 

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最後の晩餐を終えられたイエス様は、ゲッセマネという園に弟子たちと共に行かれ、そこで祈られました。特にペテロなど3名の弟子たちを傍に呼ばれたのは、「山上の変貌」の時同様、特別な啓示が示されたことを表しています。「啓示」というのは、見た目の現象の奥に隠されていたメッセージが開かれることで、福音書では、その度に弟子たちがメッセージを受けそこなっていることが書かれています。今回の箇所でも、弟子たちは途中で眠ってしまいましたが、単に肉体の弱さに負けてしまっただけではなく、生まれつきの人間は霊的な啓示を受けとれないことを意味しています。「悲しみのあまり死ぬほどだ」とイエス様がおっしゃるのは尋常ではないにもかかわらず、命をかけても従うと言ったばかりの弟子たちが、従うどころか共に祈ることさえできなかったのは、人間の意志や感情ではどうにもならないことが起こっていることを示しているのです。

 

ここでの啓示とは、言うまでもなく、イエス様がこれから受けようとしている「杯」のことです。それが何なのかはここには書かれていません。ただ、できれはその杯から飲みたくないが、天の父のみこころの通りになるようにという部分だけが記されています。同じことを三度祈られたというのは、徹底的に祈られたということを意味します。飲みたくないという自分の意志と、飲むべしという「父」の意志がぶつかっているからこそ、必死に祈られたのです。(他の箇所で、血の汗を流されたと描写されているとおりです)。これは、非常に特異な事と言えます。

 

私たちの場合、自分の願いと神の願いが異なるのは、残念ながら日常的なことです。そして、そのような中で、まずは必至に自分の願いを訴えますが、それが通らないことを痛感した時に、自分とは異なる神の意思を知ることになります。あるいは、自分が何を願うべきなのか分からず、まして何がみこころなのかも分からないので、はじめから「みこころがなりますように」と祈ることもあります。一種のあきらめの境地のような場合です。しかし、ゲッセマネの祈りがそのようなものであったということはあり得ません。イエス様は、自分の意志と神の意志がそれぞれ何かをご存じであり、しかもそれが対立しているからこそ必死に祈られたのですから。

 

ここで大切なのは、私たちと異なり、イエス様の意志が間違っているから神の意志と対立したのではないということです。あるいは、意志とは別に、拷問への恐怖から、急に祈られたなどという、人間ドラマの話でもありません。大切なのは、イエス様の意志は常に神の意志とひとつであり、それはゲッセマネにおいても同様だということです。つまり、杯を飲まないというイエス様の意志は、それ自体としては間違ってはいないということがポイントです。しかしその「間違ってはいない」意志と、神の「正しい」意志がここで絶対的に矛盾し、対立しているという異常事態がゲッセマネなのです。

 

この「異常事態」は、イエス様に死ぬほどの悲しみをもたらすものです。直訳すると、「わたしのたましいは、死に至るまで、悲しみに囲まれている」となります。イエス様にとって最大の悲しみは何かということが「奥義」だということです。それは、ここでは明示されていません。弟子たちも悟りませんでしたが、後に聖霊が来られてから徐々に明らかになっていきます。すなわち「福音」のメッセージが、この「杯」の解き明かしになるのです。私たちは、「キリストは私たちの罪のために死なれた」ことを知っています。ただし、それが悲しみの理由だということは考えられません。他人のために死ぬのは、確かに不条理なことではありますが、そんなことはまっぴらだというのは、私たちの感覚に過ぎません。死自体が絶望の原因でもありません。イエス様は三日目に復活することをご存じだったのですから。そうではなく、パウロの言葉によれば、「彼は呪いとされた」という所がポイントです。呪いとは、「父」との関係が絶たれることです。それは、イエス様の側から言えば、望ましいことではないことどころか、正しいことのようにも見えません。なぜ、そのような形のみが、救いの手段なのでしょうか。一般的な形で言えば、なぜ、よりによって「十字架」なのかという問いです。

 

福音の答えはこうです。十字架は文字通り「最悪」の出来事です。それは、イエス様にとってだけではなく天の父にとってそうでしょう。そして、それは「最悪」の状態にある罪人とひとつになるためでした。問題はひとつ、そのような悲惨な「同一化」が、人々の救いをもたらすことになるのか。答えは「イエス」であり、それが「父」のみこころです。しかし、それは「復活」によって初めて明らかになったことです。復活が福音の根本であるのはそのためです。イエス様と「父」との間で起こった葛藤の中身は私たちには計り知れないものです。罪人である私たちと神のひとり子とでは、出発点が逆だからです。しかし、キリストの復活によって、十字架という最大の矛盾が克服されました。罪の問題は本質的に解決されたのです。ですから、今や「主の名を呼ぶ者が皆救われるのです」。

 

<考察>                                                          

1.私たちの場合、どのような祈りが苦しい祈りでしょうか?

2.ここでの3人の弟子たちは、どんな心境だったでしょうか?

3.「主の名を呼ぶ者は皆救われる」ことを確信できますか?