メッセージ要約 2022712

マタイ福音書2626節から29節 「過越しの食事」その2

 

26:26また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」 

26:27また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。 

26:28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 

26:29ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 

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前回は、いわゆる最後の晩餐となった過越しの食事について学びました。この晩餐は、十字架直前に行われた唯一無二の出来事ですが、この食事が元となって、後に「主の晩餐」と呼ばれるものが行われるようになりました。今回は、その「主の晩餐」について学びます。

 

まず、初期(一世紀ごろ)の状況を見ます。パウロがコリント教会への手紙の中で、主の晩餐について書いているように、それは、いわゆる教会の集まりの中心であり、しかもそれは実際の食事でした。パウロは当時の問題について書いています。ある信徒たちがどんどん飲食を進め、中には酔っている者もいるという、酷い状態でした。パウロは、単に食欲を満たすためなら自宅で食べるべきであり、わざわざ集まるのは、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」ためであると言っています。この意味合いについては前回学びました。因みに、食事が「晩餐」だったのは、ユダヤ人主体の初期教会で、会堂での礼拝がある安息日があけた時(土曜日の日没後)に信徒たちが集まったからだと言われています。

 

このような「食事」は、信徒だけが集まって行われたので、一部の悪意ある人たちは、「キリスト教徒は、人の血を飲み、肉を食べている」と言って迫害の口実にするようなことも起きました。背景には、当時盛んだった「密儀宗教」の問題があります。(もちろん、この問題は今日にいたるまであります)。「密儀」とは秘密の儀式のことです。特定の選ばれた人だけが参加できる、外部には非公開のもので、儀式に参加した者は特別な悟りを開いたり、神々になれるといった、ある種オカルト的な宗教形態です。「主の晩餐」もそのようなものと見なされる危険がありました。ですから、パウロは、「主の晩餐」は、「参加すること自体に意味がある」密儀ではなく、十字架の想起と告知という、現実的で開かれた場であると述べているのです。

 

このような「主の晩餐」は、後に「キリスト教会」が組織的なものになっていく中で、今日「聖餐式」と呼ばれる儀式へと変わっていきました。そして、交流の場としての「食事」は、聖餐式とは別の「アガぺ」(愛餐会)として区別されるようになりました。(今日の、挙式と披露宴のような関係に似ています)。そして、食事と切り離された聖餐という儀式は、密儀としての要素を残すことになりました。すなわち信徒だけが参加できる儀式です。そして、その儀式の意味合いについても歴史の流れの中で様々なものが唱えられるようになりました。

 

今日代表的なものは三つあります。第一にカトリック教会の「化体説」で、パンとぶどう酒は見た目は違っても実体としてキリストの肉と血であるというものです。ですから文字通りキリストを「食べる」のです。(ぶどう酒はこぼすリスクがあるので、血は肉に含まれるという解釈で、パンだけ受けるという聖体拝受という形もあります)。第二は共在説という、ルター等によって唱えられたもので、パンとぶどう酒と共にキリストの肉と血が(不可視でも)実体として存在するという説です。第三はルターと袂を分ったツウィングリによるもので、パンとぶどう酒は、キリストの肉と血の象徴だというもので、のちにプロテスタント教会内で広まりました。もちろん、この三つ以外にも、その中間のようなバリエーションがいろいろとあります。

 

儀式が儀式である限り、いろいろな意味づけがあるのは当然です。しかし、私たちを救うのは儀式ではなく神ご自身です。まして、儀式の意味づけ次第で私たちの命運が決まるなどということはナンセンスです。儀式を行う教会が伝統を尊重するのは良いとして、私たちに必要なのは、実体としてキリストのからだの一部とされることです。それは聖霊によってのみ可能であり、その働きに「はい」と答える信仰です。このことについては、ヨハネ福音書に詳しく書かれており、イエス様は結論として、いのちを与えるのは霊であり、肉は何の役に立たないと言われました。ですから、改めて聖霊が何をされるのかを知る必要があります。

 

「血」はユダヤでは一般的に「いのち」の象徴ですが、キリストの血を飲んで彼のいのちをもらうというような話とは違います。その「血」は、罪のゆるしのための契約の血です。その契約は「命がけ」で結ばれた、不可侵のものであるということです。つまり、罪のゆるしの絶対性を表すものです。もちろん、罪をゆるすのは神ご自身であり、飲み物ではありません。その意味では、ぶどう酒は「象徴」ですが、問題は儀式の意味づけではなく、私たちが信仰によってその契約に与っているかどうかです。つまり、その意味で「主の名を呼ぶ者」なのかということです。それは、「主の晩餐」であろうが「聖餐式」であろうが、「ミサ」であろうが同じことであり、それどころか、儀式自体とさえ関係のないことです。罪のゆるしの契約は永遠の契約であり、何かの儀式の最中だけ有効になるような魔法ではありません。私たちが「主の死を告げしらせる」のは、いつでもどこでも可能であることと同じです。

 

また、パンがキリストのからだだというのは、これもヨハネ福音書にあるように、キリストが天からのまことのマナであるという意味です。言うまでもなく、モーセの時代のような物質的で期間限定のマナではなく、霊的で永遠のマナであるということです。霊的というのは、私たちの霊が生かされて、神と交流できるようになるという意味です。また永遠というのは、毎日毎日ずっと繰り返しもらえるというのではなく、永遠のお方であるキリストご自身が私たちの内に住んでくださるということです。このようなことも、聖霊に働きと、それに対する信仰の応答によらなければ全く不可能なことです。キリストの内在は常時かつ永遠であり、儀式に限らないことは言うまでもありません。

 

さらに、この「パン」は「裂かれたパン」であるという特徴があります。もちろん、十字架でキリストのからだが裂かれたからですが、同時に、私たち一人ひとりはキリストのからだという「ひとつのからだ」の一部だということも表しています。一人ひとりにキリストが内在すると同時に、私たちは全員がキリストのうちにおり、ひとつのからだを成しているという奥義を表しているのです。ですから、コリントの教会に向かって、パウロは分派・分裂を非常に厳しく戒めているのです。

 

<考察>                                                          

1.儀式化することのメリットとデメリットは何でしょうか?

2.「密議」の問題点は何でしょうか?

3.「パン」「ぶどう酒」は、日本古来のものに置き換えることができるでしょうか?