メッセージ要約 2022710

マタイ福音書2617節から29節 「過越しの食事」

 

26:17さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」 

26:18イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」 

26:19そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。

26:20さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。 

26:21みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」 

26:22すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。 

26:23イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。 

26:24確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」 

26:25すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

26:26また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」 

26:27また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。 

26:28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 

26:29ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 

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「過越しの食事」は、ユダヤ人が家庭で「出エジプト」を想起するために毎年行われている食事です。食事と言っても高度に儀式化されたもので、そのプログラムには様々な内容が盛り込まれており、そのうちには、彼らが意図せずにキリストを指し示しているように見えるものがあり、大変興味深いものではありますが、今回は触れません。それよりも、この「想起」ということの意味を深掘りしましょう。

 

「出エジプト」とは言うまでもなく、エジプトで奴隷となっていたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫が、神の介入によって解放された、いわばユダヤ民族存立の基盤となった出来事です。そこにはいくつかの特徴があります。第一に、彼らの起源は、いわゆる「天孫降臨」ではなく、解放された奴隷であることです。天来の高貴な人たちがルーツではない事実は、単に謙虚なのではなく、人間に対するリアルな見方があると言えるでしょう。第、二に、この「解放」が単にエジプトに勝利したのではなく、全エジプトに対する神の審判の結果であったということです。見逃してならないのは、この「全エジプト」の裁きの現場にユダヤ人たちもいたということです。ただし、預言者モーセを通して言われていた通りの行動(小羊の血を鴨居に塗った家のなかに留まった結果、その裁きが「過越して」いったのです。つまり、彼らの存立の基盤には、生贄による裁きの免除(罪の赦し)があるということです。以上をまとめると、罪の赦しによってもたらされる奴隷からの解放によって生まれた民ということになります。

 

これは言うまでもなく、聖書の一環したテーマです。そして、そもそも何故それがテーマになったのかについても創世記冒頭に記されています。神のかたちに似せて造られた人が神に背き、罪の奴隷となってしまったこと。ただし、神は彼らを動物の皮で作った衣で覆ってくださったことなどです。これらは所謂「型」であり、出エジプトは、その型を出発点とした神の救いの業の現れということになります。ですから、出エジプトを想起することは、一回限りの歴史的出来事だけでなく、神の救いの業そのものに思いをはせることになります。言い換えると、ユダヤ民族の存在そのものが、神の救いの証しだということです。

 

この救いの業は、もちろん出エジプトで完成したわけではありません。むしろ今度は、出エジプトが「型」となりました。そして、それは、単に一民族の存立ではなく、全世界に拡がる神の民の存立の型なのです。今や「エジプト」は神に背いているこの世界全体を意味し、その罪の世界からの救済がテーマとなっています。イエス様が向かわれている十字架が新約時代における過越しの「小羊」になるのです。その中心が罪の赦しと解放であることは言うまでもありません。

 

イエス様が杯から飲み、裂いたパンを食べるように言われたのは、この「過越し」を想起しなさいということです。使徒パウロが第1コリント11章で引用したイエス様の言葉では、「わたしを覚えるために、このようにしなさい」と言われています。もちろん、ただ漠然とイエス様のことを思いだすというのではなく、過越しとしての十字架を想起しなさいという意味です。この過越しは昔のエジプトでの過越しと比べて、その質と量において異なっています。質というのは、その流された血の質です。かつては動物、すなわち人に劣るものが暫定的に身代わりの役を担ったのですが、今や神の子のいのちそのものが注がれました。すなわち人以上のものが捧げられたので、その効力は十全なのです。量というのは、その効力が全ての人に及んでいるということです。今やエジプト対イスラエルという分断ではなく、民族に関わりなく全人類が神の民となるように招かれているのです。しかし、その目的が罪の赦しと解放であることは変わりありません。私たちもユダヤ人と同じく、罪の奴隷であった自分が、今や恵みによって赦され解放された事実を確認するのです。

 

この「想起」はただ心の中で思い出すだけではなく、公けにされるべきものです。使徒パウロが「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」と書いているように、それは続けられるべきものです。パウロはこれを「主の晩餐」の文脈で書いていますが、言うまでもなく、それは食事の時に限定されるものではありません。むしろ、それは私たちの信仰告白そのものですか、どんな形であれ行われるものです。そして、それは「主がこられるまで」、すなわち再臨の時まで続きます。「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日まで」とはそのことです。「わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」とは、目に見える形での「会食」はおあずけとなり、目に見えない霊的なものとなるという意味です。もちろん、霊的交流は本質的なものであり、非常に深い体験を伴うこともあります。それは大切なことではありますが、日常的には「想起」と「告知」という「宣教」が基盤となるのです。

 

<考察>                                                          

1.「過越しの食事」を準備する人をイエス様がご存知だったのは、どういうことでしょうか?

2.「過越しの食事」にユダもいたというのは、何を表しているでしょうか?

3.自分なりの「想起」と「告知」はどのようなものなのかを考えてみましょう。