メッセージ要約 202273

マタイ福音書2614節から25節 「ユダ」

 

26:14そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、 

26:15こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 

26:16そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

26:17さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」 

26:18イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」 

26:19そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。

26:20さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。 

26:21みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」

26:22すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。 

26:23イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。 

26:24確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」 

26:25すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

 

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イスカリオテのユダについては古来多くの関心が寄せられてきました。イエス様の中心的な弟子である12使徒のひとりでありながらイエス様を裏切り、悲惨な最後を遂げたので無理もないことと思われます。その名前から、カリオテ出身であるとか、暗殺者を表しているとか、さまざまな憶測がされています。それ以上に、裏切りの動機に関して様々な説が唱えられています。表面的には金銭目当てだと書かれています。イエス様を銀貨三十枚で売り渡したとありますが、この額は、預言者ゼカリヤが、ほふられる羊の群の飼うことになった報酬として受け取り、神殿の鋳物師に投げ与えた金額です(ゼカリヤ書1112節)。これは、過失で死亡した奴隷の賠償金の額でもあり(出エジプト記2132節)、ゼカリヤ書では、愚かな牧者たちが神を見積もった額だとされています。この預言の箇所ではさらに、神がユダとイスラエルの分離と愚かな牧者への裁きが語られています。ですから、ユダの心理や意図はどうであれ、これがゼカリヤの預言の成就をあらわしていることは、まずおさえておくべきでしょう。すなわちイエス様の死は、奴隷の死と同等とみなされたことと、それを決定した愚かな牧者(当時の祭司長や律法学者たち)が罪に定められ、さらに、イスラエルの民が離散してしまう悲劇を表しているのです。

 

その上で、なおユダの動機が詮索されるわけですが、結局それはどこまでも闇の中と言うほかはありません。他の福音書で「サタンが入った」とあるように、それは人間的な次元を超えた事柄だということでしょう。もちろん、そうなると「なぜサタンが入ったのか」という疑問が出てくるでしょう。また、そもそもイエス様は何故そのような人を弟子にしたのかという疑問もあります。このように、ユダ個人の問題については、無数の推測がなされるばかりです。

 

聖書に書かれている範囲で分かるのは、ユダとその他の弟子たちとの対比です。第一に、ユダの「売り渡す」という積極的な裏切りに対して、おそらく弱さの故にイエス様を否定しまったペテロたちの裏切りという対比があります。第二に、自殺という悲劇的な結末を迎えたユダと、後に立ち直った他の弟子たちという対比もあります。ここで問われるのは、第一の対比と第二の対比の関係です。つまり、積極的に裏切ったから必然的に自殺してしまったのか。逆に、後で立ち直れたのは裏切りが弱さの故だったからなのかという問いです。この答えも闇の中です。つまり、仮に積極的に裏切っても、立ち直れる可能性はあったが、そのチャンスを逃してしまったのかという問いです。

 

このようなことが問題になるのは、もしかしたら、自分はユダのようではないか、いつか弱さの故に裏切るのではないか、さらには積極的に裏切ってしまうことさえあるのではないかという恐れを持つことがあり得るからでしょう。しかし、大前提として、イスカリオテのユダは、歴史上ひとりだけの特別な人間であり、他のどのような人の代わりにはなり得ないということがあります。自分がイエス様にはなれないようにユダにもなれないのです。ですから、自分が裏切るかもしれないという疑いについては、ユダの事例からではなく、福音そのものから答えを得なければなりません。(このことは、今回の箇所だけでなく、聖書一般に言えることです。つまり、歴史上の個別の事例を単純に一般化することはできないということです)。

 

「裏切り」について、福音は何と語っているでしょうか。第一のポイントは「神の主権」すなわち「選び」です。イエス様はペテロの裏切りも予告しましたが、同時にペテロの信仰がなくならないように祈ったとも言われています。彼が立ち直ったのは、彼自身によるのではなく、神の主権によるのです。同様に、ユダの行動も神の主権の下にあります。このことは、神が主権者である以上当然なのですが、同時に深い疑問を起こします。パウロがローマ書9章から11章までの箇所でイスラエルへの裁きについて論じている問題です。一般化すると、悪も神の主権の下になされるのなら、人に責任を問うのは不当ではないかという主張です。これに対して、パウロは論理的な答えは提供していません。パウロに限らず神の主権と人の自由意志の共存は、論理的には解決できないのです。パウロは単に「神に言い逆らうあなたは何者なのか」という、ヨブに対する神の応答と同様の言葉を発しています。これは、それだけではやや「力ずく」の感もある話ですが、主眼点はそこにあるのではなりません。神の主権と選びを強調するのは、神の恵みが全ての上にあるということを言うためです。

 

パウロによれば、イスラエルが選ばれのは恵みによりますが、彼らが一旦捨てられたのは異邦人に恵みが及ぶためであり、やがてその恵みがイスラエルにも及ぶのです。この歴史の大きなプロセス全体もまた神の恵みであり、個々人の救いもまた恵みによります。その恵みによって可能なのが「信仰」です。

ユダの出来事もまた、ゼカリヤの預言にあるようにイスラエルが一旦捨てられることを集約していますが、福音はそれで終わりません。私たちはユダの心理や運命を詮索するのではなく、恵みと信仰という福音を読み取るべきなのです。

 

<考察>                                                          

1.祭司たちは何故弟子の裏切りを必要としたのでしょう?

2.「裏切り」とは結局何なのでしょう?

3.一旦捨てられイスラエルが再興することは、何を意味しているでしょう?