メッセージ要約 2022626

マタイ福音書261節から13節 「ナルドの香油」

 

26:1イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。 

26:2「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」 

26:3そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、 

26:4イエスをだまして捕え、殺そうと相談した。 

26:5しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。

26:6さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、 

26:7ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。 

26:8弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。 

26:9この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」 

26:10するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。 

26:11貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 

26:12この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。 

26:13まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 

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祭司長等の権力側が、イエス様の処刑について相談する場面に続いて「ナルドの香油」として有名な出来事が描かれています。(香油の名はマルコ福音書に記されています)。ひとりの女性(ヨハネ福音書ではマリヤ)が非常に高価な香油を惜しげもなくイエス様に注いだことに対し、弟子たちは無駄使いだと憤慨しましたが、イエス様は最上の評価をされたという出来事です。焦点となるのは女性の信仰と、出来事そのものの意味、そして弟子たちの反応です。

 

女性の信仰については多くが語られています。当時の労働者にとって一年分の賃金に相当するといわれる高価なものを捧げたことから、彼女のイエス様に対する愛と献身が伝わってきます。また、マルコ福音書では、香油の壺を割ったとありますから、それが後戻りを許さない徹底的なものであったことが分かります。このような行為は、分別や計算を度外視したものですから、損得や合理性重視の弟子たちから理解されなかったことも頷けます。また、「愛は恐れを知らない」とあるように、他人からの批判も恐れなかった勇気ある行動であったとも言えるでしょう。この「一途の愛」が信徒たちへの手本であることは、まず受け止めるべきでしょう。

 

その上で、出来事そのものの意味を知ることが大切です。というのは、「愛と献身」は常に求められていることですし、他にもそのような事例はありますが、今回の箇所は十字架直前の特別な出来事だからです。それは、「埋葬の準備(埋葬に向けての準備)として行われた特別な「油注ぎ」だったのです。その意味を女性がどのように意識していたかはわかりません。無意識だったとしても、それは神が用意した特別な時(カイロス)でした。

 

言うまでもなく、「キリスト」とは、「油を注がれた者」という意味です。油注ぎは、祭司などを神が任命したことを表す行為です。キリストとは、祭司・王・預言者といった神のしもべを統合し、その上におられる特別な油注ぎを受けているのです。祭司向けの油は特別な調合でできたもので、ナルドの香油とは別ですが、大事なのは油が聖霊を象徴しているということです。キリストは聖霊の油注ぎを受けたお方だということです。そのような流れの中で、この女性が無意識にせよ香油を注いだのは、埋葬の準備としての特殊な油注ぎだったと言えるでしょう。言い換えると「十字架のキリスト」としての油注ぎです。

 

「埋葬の準備」とは、埋葬にあたって遺体に油を塗ることです。(復活の朝、女性たちが油を塗ろうと墓に行った話があります)。準備と言っても、生前葬のように生きている間に儀式を行うようなものではなく、すでに亡くなった人に対してなされるものだということがポイントです。つまり、この女性の行為の時点で、ある意味でイエス様はすでに死んでいたのです。地上の観点からすれば「死に定められていた」ということです。これは祭司長たちにより死刑が決まっていることと対応しています。ここに「ほふり場につれていかれる子羊」のイメージが重なります。因みにこの出来事があったのはベタニヤですが、それは「貧しくへりくだった柔和な者の家」という意味の名前です。ほふる側の代表が祭司長たちであり、ほふられる側にいて、ほふられるお方こそがキリストであると告白する側の象徴が、この女性だということになります。因みに弟子たちは、この時点ではそのどちら側にもいないことも興味深い点です。

 

「十字架にかけられたお方」をキリストと告白すること自体、聖霊によらなければ出来ない超自然的なことですが、それを、まだ目前で生きておられるお方に対して行うというのは、まさに奇跡的な出来事です。イエス様の評価が絶大な理由はそこにあります。これは、目の前でおられるイエス様を単にキリストと呼ぶのとは違います。生きておられるのに「死んでいる」お方をキリストと告白するということです。ただ生きているのでもなく、ただ死んでいるのでもありません。これを逆に表現すると、「十字架につけられたキリスト」が生きておられるというのが福音であり、私たちはそれを告白するのです。この女性からすれば愛と献身の行動であったものが、実は驚異的な福音信仰を表現であったのです。

 

「死んでいること」と「生きていること」がひとつであるような事態は「生死一如」と呼ぶことがあります。福音での「生死一如」は、パウロの表現では「肉(生まれつきの自分)は罪の故に死んでいても、霊(キリストにある自分)は義の故に生きている」ということになります。ナルドの香油よりも高価な聖霊が臨むとどうなるのでしょうか。聖霊が臨むと(証人としての)力を受けるのですが、それには前提があります。すなわち私たちがキリストとともに「十字架につけられた」ということ(つまり死んでいるということ)です。そして、キリストとともに死ぬ、つまりイエスの名を呼ぶこと自体、聖霊の働きによります。ですから、まとめて言うと、聖霊によって私たちは死に、生きるのです。ナルドの香油の出来事は、一面では人が神に対して行うことです。しかし、それは神によって導かれた行為であり、その導きとは、私たちがキリストと共に死に、キリストとともに生きるようになるというものです。ですから、葬りの準備は、イエス様のためになされたのですが、実は、それは私たちの「古い人」(生まれつきの自分)の葬りの準備をも象徴しています。それが聖霊が私たちを葬り生かす「福音」であり、まもなく起ころうとしている十字架が、福音を現実化するのです。

 

 

<考察>                                                          

1.イエス様は、なぜ「らい病人シモン」の家におられたのでしょう?

2.弟子たちは、なぜそんなに憤慨したのでしょう?

3.自分では意識していなかった行動が、実は神の導きだったと後でわかったことがありますか?