メッセージ要約 2022年6月19日
マタイ福音書25章31節から46節 「羊と山羊のたとえ」
31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 33羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 36わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
44そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
46こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
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この話は「たとえ」というよりも終末についての説教のようでもあります。その教訓は「最も小さい者たちのひとりに対し善行をしたか、しなかったかによって裁きの結果が決まる」というものです。一見明確ですが、例によって解釈はいろいろと分かれます。「わたしの兄弟たち」「最も小さい者」が何を指しているかによっていくつかのタイプがあります。
第一のタイプは、「艱難期前携挙説」の人たちのもので、この出来事を艱難期後にあるキリストの地上再臨時での裁きと考えるものです。この説では、艱難期にはクリスチャンは携挙されて地上にいないので、ユダヤ人中心に神の計画が進みますが、その時に諸国の民がユダヤ人(わたしの兄弟たち)に対して取った態度によって裁かれるということになります。この説では、この話は今生きている私たちクリスチャンとは関係のない話になってしまいますが、「信仰のみによる救い」という福音の根本との整合性については心配する必要がありません。
第二のタイプは、「わたしの兄弟」を、最も一般的な意味にとって、クリスチャンを指すと考えます。これは福音書の他の箇所でも語られていることです。この説のポイントは「キリストのからだ」です。すなわち、キリストと、その「からだ」であるクリスチャンが一体であるという重要な真理が語られていることになります。その上で、その中でも「最も小さい者」は単に年少の者ではなく「最も無力な者」を指しているとして、その具体例が「空腹」「宿なし」「病気」「牢獄にいる」者であることになります。(もちろん、これらは一例であり、その他の状況を排除するものではないでしょう。やもめや孤児の世話についても別の所で書かれています)。要するに「兄弟愛」とは「主に対する愛」と一体であるということで、特にヨハネ福音書や手紙で強調されているものです。
このこと自体は非常に大切な真理であり、再臨についての理解の仕方と関係なく、今の私たちに対する教えなのですが、それが「終末における諸国民の裁き」の話そのものなのかは難しい問題です。というのは、この話では、小さい者に対してした事もしなかった事も、まったく自覚なしに行われた(行われなかった)行動だからです。私たちは、キリストとキリストのからだの一体性を知っていることが問題となります。
第三のタイプは、この話を純粋に倫理的に解釈し、相手がクリスチャンであるかどうかと関係なく、弱者一般に対して行われる倫理的行動が評価の対象となっているというものです。それはキリスト教の枠を超えていますが、無神論や超宗教の倫理というわけではありません。宗教の枠に関係なく、「小さな者」には目に見えないキリストが内在されているという霊的直観に基づいており、マザーテレサの信仰などが有名です。これは「超キリスト教」、「普遍的キリスト教」「神秘的キリスト教」などと呼ばれることもありますが、名前はどうであれ、福音はいわゆる宗教の枠組みを超越しているというのは、とても大事な真理です。唯一の神を、人間が定めた枠組みに閉じ込めることはできないからです。ただし、マザーテレサは弱者の中にキリストを見ていましたから、キリストのからだの範囲が拡大されてはいますが、第二のタイプと同じ問題を抱えることにもなります。
以上の様に解釈は分かれますが、「知らずに行う善」を強調すると、意識的なキリスト信仰との整合性が問われることになるという難問があり、やはりことは「説教」というよりも「謎」としての「たとえ」として私たちの前に置かれています。因みに、この善には「病気の癒し」や「囚人の解放」といった劇的なものは含まれておらず、一般的な慈善や訪問など、だれでもしようと思えばできることです。また、その時の動機も特に問われていません。「小さい者」「弱い者」が厳密にだれなのかも分からず、私たちはいつどこで、その「善」をしているのか、あるいはしなかったのかも知らないのです。実は、この「いつどこか」が分からないという所が、この話の核心であり、それこそまさに、「再臨」と同じ性質だということがポイントです。キリストの地上再臨は未来のことで、それがいつなのかは誰も知りませんが、実はキリストは天に座して祈っておられると同時に、目に見えない形ですでに地上にもおられるのです。一般論としては、小さい者、弱い者のうちにおられるのですが、具体的にはそれが誰なのかは分からないし、また分からないことが重要なのです。
「分からない」ということは、自分が「救われるために」弱者救済をするということはできないということです。「再臨」がいつか分かっていたら、その直前に準備することもできるのですが、それは無理な相談です。準備はいつでもしているべきなのですが、それは、キリストを信じて待つということです。その上で、私たちは日常の「小さな」善を行い続けるべきですが、それは、「右手がしていることを左手が知らない」ように、報いを期待してではなく、「さりげなく」「普通に」なされるものです。格別のキリスト教的な活動ではない「善」が実はキリストへの信仰であるという逆説がここにあります。すべての根底にはキリスト信仰があります。ただし、善行をあえて否定する信仰は信仰とは見做されないのです。
<考察>
1.この話から受けた第一印象は何でしょうか?
2.「小さな者」ではなく「大きな者」への善行はどうなるのでしょうか?
3.信仰と善行との関係を考えてみましょう。