メッセージ要約 2022612

マタイ福音書2514節から30節 「タラントのたとえ」

 

25:14天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

25:15彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。 

25:16五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 

25:17同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。 

25:18ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 

25:19さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。 

25:20すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』 

25:21その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 

25:22二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』 

25:23その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 

25:24ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。 

25:25私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』 

25:26ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。 

25:27だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。 

25:28だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』

25:29だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられの

です。 

25:30役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

 

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イエス様による神の国の「たとえ」は、霊的な事柄を指し示していることを学んできました。今回のたとえも、さもないとこの世の話になってしまいます。例えば、資本主義の新自由主義版です。「手持ちの資金は資本として活用すべし。投資なり企業なりで資本を増やせ。タンス預金で眠らせているような者は、いずれそのお金さえ失うのだ」というような話です。不完全な現代の資本主義社会でさえ、これよりはマシです。タンス預金を金持ちが強奪するわけではないし、たとえ事業に投資し失敗しても、ある程度のセーフティーネットは確保されているからです。さすがに、神の国がこの世にも劣る弱肉強食の世界だと主張する人はいないでしょう。

 

そこで、お金は、与えられた能力の比喩だという解釈が出てきます。実際に「タラント」は「タレント」(能力)の語源ですから、もっともな考えだと言えます。ただ、与えられた能力は眠らせずに活かすべきだというのは、別に神の国でなくてもその通りのことです。ですから、やはりこの「たとえ」が神の国の何を指し示しているのかを探らなければなりません。まずは、この世のお金や才能と、この「タラント」との違いを見ていきます。

 

第一に、「タラント」は神から管理を一時的に任されていて、いずれ神に返さなければならないものだということです。第二に「タラント」は金額としては大きいのですが、神からは「わずかなもの」と呼ばれていて、それは初めにに預けられたものの多少とは無関係だということです。第三に、忠実なしもべは主人の喜びを共有しますが、悪いしもべは、主人をひどい者だと思っているということです。以上のことから、テーマは主人としもべとの関係であることがわかります。

 

大前提として、このたとえも、その前後のものと同様、キリストの再臨に関するものだという所がポイントです。その再臨は、遅れているようでありながら、いつかはわかりません。忠実なしもべは、主人の帰りが今晩でもずっと先でもよいように生きている者です。しもべに所有物はありません。あるように見えてもそれは預かりものです。無一物で自らの死を介して神と接しているという事実があり、その死がキリストの死に包まれることで、キリストの復活にも与ることになるというのが福音に他なりません。この真理が目に見えるまで十全に現れる時が再臨ですから、それは福音の完成形の現れと言えるでしょう。それがいつなのかはわからないからこそ、いつでも良いように生きるべきです。ただ、地上で生きている限り、無一物であることを忘れる時があります。いわば私物化という錯覚に陥ります。しかし、いわゆる「私物」は神にお返しすることはできず、ただ滅ぶだけです。反対に、キリストのものであれば、それは神のものですから、豊かに実を結びます。それが神の国なのです。

 

このたとえでは倍に増えたとありますが、それはほんの始まりに過ぎません。他のたとえでは、50倍、100倍と、すさまじい勢いで成長するさまが描かれています。忠実なしもべは、まずは始まりを体験したのですが、これからは、そのすばらしい結実を主人と共に見て、共に喜ぶ者になるというのです。ですから、忠実なしもべとは、自分の持てるものを上手く活用した人ではなく、何も持たないが故に神に働いていただいた者であり、主の喜びが自分の喜びであるような者だということです。

 

反対に、悪いしもべとは、神は自分のものを取り上げる酷い存在だと思っている者のことです。「蒔かない所から刈り取る方だ」と言っている通りです。もちろん、理屈の上では、自分のものも、そもそもは神から来たとは言うでしょうが、現実には「自分のものは自分のもの」なのです。しかし、それは取り上げられる運命にあります。そして、その時に損失を追求されないように隠しておいたのです。これは、この世の人とは違います。この世では、自分のものが取り上げられるとさえ思わないので、最大限活用し増やそうという発想が出てきます。要するに「しもべ」ではなく「主人」であると錯覚するのです。しかし、その錯覚は、再臨を待たずとも死によって打ち砕かれます。神は、死よりも前にその錯覚から目覚めることを望んでおられます。しかし、もし生きている間に目覚めないばかりか、死を通しても目覚めず、神の前に出て初めて無一物を痛感してもなお、それは神による略奪だという意識であるならば、神の喜びを共有することなど到底できません。それが厳粛な事実です。

 

与えられ豊かになる「持っている者」とは、実は無一物であるがゆえに「キリストをもっている」者であり、「持たない者」とは、自分は持っていると錯覚し、「キリストを持たない者」のことなのです。

 

<考察>                                                          

1.「賜物を活かせ」との言葉は「励まし」でしょうか。それとも「プレッシャー」でしょうか?

2.「悪いしもべ」は、そもそも何故、主人が酷い人だと思ったのでしょうか?

3.「所有者」と「管理者」の違いについて整理しましょう。