メッセージ要約 202265

マタイ福音書251節から13節 「十人の娘のたとえ」

 

25:1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

25:2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。 

25:3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 

25:4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。 

25:5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。 

25:6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。 

25:7娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。 

25:8ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』 

25:9しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』 

25:10そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。 

25:11そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。 

25:12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

25:13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 

*************************************

 

イエス様は十字架を目前にして、改めて3つの「たとえ」を語られます。今回はその最初の分です。イエス様の「たとえ」は、「寓話」(登場する者・物それぞれが何を指しているかが明確である話)として読むと、真意を見失う危険があることは既に学びました。「たとえ」は日常的な事柄を使って超日常的な真理を指しているからです。同時に、それは具体的な教訓も伴っていることも重要なポイントです。

 

今回の「たとえ」の教訓は明確です。「目をさましていなさい」という、前の章で語られていることと同じです。同時に、「目をさます」ことの内容が大切であり、それを伝えるために「たとえ」が語られているのです。

まず「目をさましていない」とはどういうことなのかを考えましょう。「賢い娘」と「愚かな娘」の違いは予備の油を用意していたか否かったかです。予備を持っていたのは、花婿の到来が遅れる可能性を考慮していたからですから、結局ここでの「愚かさ」とは、花婿の遅延など無いだろうと、まさに「油断」していたことです。このことから、花婿の到来とはメシヤの再臨のことであり、それが思ったより遅れている状況になった時に慌てて

いる人々のことが「愚かな娘」で描かれていることが分かります。(初代の信徒は再臨が間近であると思っていましたが、予告されていたエルサレム崩壊が起きても再臨がありませんでした。これが「再臨の遅延」ということで、当時も、またいつの時代にも問題となっているものです)。愚かな娘も「たいまつ」と基本的な油は持っていたのですから、再臨を待っていなかったわけではありませんが、それが遅れることなど想定しておらず、いざという時に役にたたなかったわけです。

 

それにしても、「愚かな娘」が待っていたのは、婚礼の祝宴から排除されるという、非常に厳しい結末でした。このことから、さまざまな解釈や疑問が言われてきました。まず、そもそも「十人の娘」はだれのたとえなのかというものです。(寓話として読むと当然そのような疑問が生じます)。たいまつを御言葉(あるいは信仰)、油を聖霊の寓喩(たとえ)と見て、とりあえず両者は信徒であるものの、聖霊が持続しない者は排除されるという説があります。もちろん苦難と再臨遅延の中にいる信徒たちに、最後まで信仰を保つようにという励ましとしてはあり得えます。しかし、聖霊の量に多少があり、少ない者は神の国から退けられるなどというのは、全く福音に合いません。聖霊はエンジンを動かす燃料などではなく、神ご自身なのですから。そもそも、「十人の娘」は花嫁ではなく、花嫁の付き人です。教会はキリストの花嫁と呼ばれていますが、付き人が何を指すのかも不明です。まして、賢い娘は、なぜ愚かな娘に油をあげなかったのか(つまり自己犠牲的愛をしめさなかったのか)や、夜中に店があいているのか等という問いは的外れなものだと言えるでしょう。

 

また、十人の娘が皆眠ってしまったことについて、ある人は、これは「死」の象徴だとも言います。再臨の時に死者が目覚めることからの連想です。そうだとしても、復活の後、油の多少で運命が決まるということになると、やはり変な話になってしまいます。また、油については聖霊だというのとは別に、「善行」を指すという解釈もあります。次に続く「タラントのたとえ」で神から預かったものを埋めておいた者が排除されるという話があるので、信仰プラス行いの必要性を説くというものです。これもまた福音からずれていることは言うまでもありません。このように、キリストのたとえを寓話として解釈しようとすると無理が出てきます。いろいろな解釈を知ることは良いとしても、あまり細部にこだわらず、「たとえ」全体の意義を捉えることが重要です。

 

「目をさましていなさい」というのは、私たちの目がさめていない時があるからです。特に再臨のことについてそれが言えます。この「たとえ」の主眼は、再臨が遅れる可能性も視野に入れろということです。同時に、それがいつか分からない、今晩かもしれないということも事実です。言うまでもなく、これは再臨だけではなく、一人一人の人生と死についても同じです。パウロは、すぐにでも地上の生活を離れて、天でキリストと共にいる方が望ましいが、反対に、地上に残るならさらに実を結ぶことになるから、それも大切だと、悩ましい選択を語っていますが、これが実は私たちが置かれている状況なのです。私たちは死にせよ再臨にせよ、自分では分からないタイミングで神の前に出なければなりません。それがすぐであっても遠い未来であっても同じことです。ただし大切なことがあります。私たちは、ある意味では今でも神の前にいるという事実です。ここに「すでに・未だ」というキーワードが大切になります。私たちはすでにキリストによって神と共にいます。すでに「油」は注がれ、火は燃えているのです。同時に、それは「未だ」完成されてはいません。今とは比較にならない栄光が用意されています。再臨は、それが全世界レベルで実現する時です。

 

予備の油を用意していない娘は、自分の予想通りに再臨や死が来ると思っている者です。それは単なる思い違いの様に見えますが、実は神の主権を認めていないという重大な問題があります。「再臨の遅延」に対する不満はそこから出てきます。ペテロの手紙に、人は遅延を思っているが、神は忍耐深いお方で、一人でも滅びないことを願っておられるとあります。この「忍耐」がポイントです。私たちは、再臨を待ち続けることが自分の忍耐の問題だと思っていますが、実は私たちではなく神の忍耐こそが事の本質だということです。そもそも私たちが救われたのは「神の忍耐」のゆえです。私たちにとって神の忍耐は想像を絶するものではありますが、予備の油を持つ者とは、神の忍耐こそが救いであることを知り、自らのささやかな忍耐によって、神の忍耐と共に生き、ご計画と主権を貴ぶ者のことなのです。

 

<考察>                                                          

1.「再臨の遅延」についてどう思いますか?

2.「すでに」と「いまだ」両立しているものには、何がありますか? 

3.「神の忍耐」とはどのようなものだと思いますか?