メッセージ要約 2022529

マタイ福音書2432節から44節 「小黙示録」その2

 

24:32いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。24:33そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 

24:34まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。 

24:35この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 

24:36ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 24:37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 

24:38洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 24:39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。 

24:40そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 

24:41ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 

24:42だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。 

24:43しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。 

24:44だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

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前回、再臨についての二つの対照的なアプローチを見ました。一つは、黙示思想の象徴的な言語を「解き明かし」、歴史の出来事を読み解いていくという方向です。今回の箇所でも「いちじくの木のたとえ」で、預言された出来事を見たら「その時」の近いことが分かると書いてあります。もう一つは反対に、象徴を霊的に解釈し、歴史上の出来事と無理に結び付けないで理解しようという方向です。今回の箇所でも、「その時」は突然来ると強調されている通りです。どちらにも一理ありますが、極端に走らず、バランス良く受け止めることが大切です。その上で、私たちに求められていることが何なのかを知ることが必要です。それはすなわち「いつも目をさましているべきだ」ということです。

 

「目をさませ」というのを、上記の第1のアプローチの人は、「預言の詳細を理解して、現実に起こっていることを見逃さないようにせよ」というように理解します。そうすれは、突然再臨が起こったなどと言って驚くようなことはないということです。そのような面もあるかもしれませんが、だれも「その時を知らない」という言葉は厳粛に受け取る必要があります。むしろ、「目をさませ」というのは、旧約でも何度も語られているということが重要です。それは、夜回りが夜明けを待ち望むように、神のことばと働きを待ち望み続けるという意味です。

周囲の出来事に目を向けて観察するより、神ご自身に目を向け、耳を傾けるべきだということです。これは、もちろん、いついかなる時にも当てはまることですが、日常的であると同時に終末的なことでもあるという、緊張感と期待をもってなされるのです。

 

以上のことが肝心だという大前提の上で、ごく簡単に、いわゆる「終末論」と呼ばれるものについて確認しておきます。何度でも繰り返しますが、私たちは「終末論」であろうが、「何々論」であろうが、神学的な理論(教義)を信じているのではなく神ご自身を信頼しているのです。(理論は信仰ではなく研究の対象です)。そして私たちを救うのはキリスト教ではなくキリストご自身です。ただ、様々な終末論が、あたかもそれが唯一の聖書理解であるかのように宣伝されるきらいがあるので、一通り確認をしておくことが必要なのです。

 

終末論にはまず、黙示録の「千年王国」と、再臨との関係についての分類があります。再臨が千年王国の前にあるという前千年期再臨説〜@、後にあるという後千年期再臨説〜A、「千年王国」は霊的なもので、教会時代と同じもの(目に見える千年王国は無い)という無千年紀再臨説〜Bという分類です。それぞれ、聖書のいろいろな箇所が引用されて主張されますが、今詳細には立ち入りません。保守的な教会で多いのは@で、キリストが再臨され、地上に千年王国が建てられるというものです。Aでは、福音宣教が行き届いて千年期が訪れ、その後に再臨があることになります。Bもほぼ同じですが、千年期の内容が異なります。

 

続いて、「携挙」と「艱難期」について分類です。まず再臨の前には大きな艱難があるというのは共通認識です。携挙というのは、信徒が「空中に引き上げられる」という出来事をさしています。この携挙が再臨(キリストが地上に来られるという意味で地上再臨と呼びます)と同時なのか別なのかという問題があります。@の中のある説は、まず突然キリストの空中再臨があり携挙が行われ、「艱難期(7年)」があり、その後に地上再臨が起こり千年王国が来るというものです。(千年期の後、新天地が訪れます)。これは前艱難期携挙説と呼ばれます。因みに、7年の艱難期を前後に分け、後半を大艱難期と呼び、その前に携挙があるという、中艱難期携挙説というものもあります。その他のタイプの@、そしてAやBの場合、地上再臨と空中再臨という区別はなく、ひとつの再臨があるだけです。信徒が引き上げられることと地上に来ることとはセットのことと考えられますが、Bの場合、そもそも、ほとんどのことは霊的な事柄の比喩として捉えられることが多いです。@が一番「字義的」(比喩的ではないという意味)な解釈のように見えますが、AやBからの反論もあり、議論は尽きることがありません。

 

以上のような大きな分類の上で、艱難期や千年期の内容についてもいろいろと議論があります。@では、携挙によって地上からクリスチャンが消滅し、艱難期にはユダヤ人が中心となって歴史が展開することになりますが、そのような読み方が正しいのかどうかは判然としません。いずれにしても、終末論というのは未来のことについての話ですから、現時点で何が正しいのか(あるいは全部間違っているのか)は決着できないのです。ですから、私たちはそのような事柄で論争し分裂するようなことがあってはなりません。終末論は信仰の対象ではなく、あくまで研究の対象であり、研究するのであれば、冷静に広い心でオープンに研究すべきです。しかし、目をさまして主を待ち望むことは全ての人に求められていることです。

 

その意味では、再臨を霊的に解釈することも有益でしょう。私たちのいのちは、その一瞬ごとに終末に接しているということを意識して歩むということです。その終末が個人のことであっても、社会のことであっても、その意識そのものは変わらないでしょう。というのは、神と直に接することは、人にとっては、ある意味で死を意味するからです。「人は神を見て、なお生きていることはできない」とある通りです。ところが、そのような存在である人がキリストとつながるならば、その人はキリストの死と同じようになり、そしてまたキリストの復活と同じようにされるからです。キリストの死と復活こそが、終末と新世界の始まりなのですから、私たちはそのキリストと共にあることこそが、真に目をさましていることになるのです。社会規模の終末もその延長にあることは言うまでもありません。

 

<考察>                                                          

1.「携挙」「千年王国」「空中再臨」「地上再臨」等の用語を整理しておきましょう。

2.そもそもお互い相いれないように見える複数の説が存在しているのはなぜでしょう?

3.「再臨」と「死・復活」との関係について整理しましょう。