メッセージ要約 2022年5月22日
マタイ福音書24章1節から14節 「小黙示録」その1
24:1イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
24:2そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
24:3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
24:4そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
24:6また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
24:7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
24:8しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
24:9そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24:10また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
24:12不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
24:13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
24:14この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
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神殿はユダヤ人の誇りであり、イスラエルの栄光の象徴です。それが崩壊するというのは、彼らにとって最悪の出来事に違いありません。もっとも、彼らは既にそのようなことを過去にも経験していましたし、その都度、預言者たちを通して神はメッセージを送られました。その意味では、今回のイエス様の発言も預言者のそれと同じ路線のものだったと言えるでしょう。ただし大きな違いもあります。それは、「あなたが来られる時」とあるように、いわゆる「再臨」が同じ文脈で取り上げられていることです。
紀元70年、実際に神殿は崩壊しました。それまでの期間、多くの人々(弟子たち)は神殿崩壊とそれに伴う艱難が今の時代の終わりであり、それに続いてすぐにでも「再臨」が起こり、新しい時代が始まると考えていました。そして、艱難の様々な具体例も挙げられていて、それらが再臨が近い徴(しるし)と考えられていました。しかし同時に、「その時」がいつなのかは天の父以外だれも知らないとも明言されている上に、それは「いなずまのように」来るという象徴的な表現もされていて、いわゆる常識的な出来事ではないことも示されています。
このことから、再臨についての二つの対照的なアプローチが出てきます。ひとつは、「その時」は厳密にはわからないけれども、しるしからある程度わかるというものです。地震や飢饉、戦争といった災い、にせキリストたちの出現、人々の愛が冷えることなどの事象を見て、いよいよ「その時」が近いと告げます。そのような告知は、歴史上数えきれないほど繰り返しされて来ました。というのは、上記のような出来事はいつもあるからです。問題は、そのような話の中に、「あれが偽キリスト、反キリストだ」という決めつけが起こることです。それに加えて、極端になると、艱難の詳細について、現実の事象をすべて当てはめ、それらを理解している「われわれ」こそ、神の奥義を知っているのだという独善に陥ります。そのようにして多くのカルトが誕生してきました。
このような方向は要注意なのですが、それでも確かに現代は今までと違い、戦争の破壊力が究極まで強まっていたり、地球規模の環境問題があり、さらには、遺伝子操作、AIによる支配など、まさに「世の終わり」を思わせる事が増えていて、切迫感を持つのは当然だとも言えます。一部には、第三次世界大戦や小惑星激突などの大惨事を黙示録や第二ペテロの手紙などに読み込んで危機感を煽る人もいますが、万が一そのようなことがあったとしても、それが復活や新天地の到来をもたらす保証はありません。人類破滅の危機に宇宙から知的生命が訪れ、地球を統治し、さらには人類と地球自体も作り変えるようなSFもありますが、それは聖書のパロディーであって、聖書そのものでないのは言うまでもありません。ただし、そのような物語が生まれてくるのは、人類の英知に対する悲観的な見方というリアリズムがあり、もはや「外圧」によらなければどうすることもできないという嘆きと叫びがあることも見逃すわけにはいきません。
また、再臨の前兆の中に、福音が全世界に宣べ伝えられるという言葉があることも重要な点です。福音の拡がりという点では、現代はローマ帝国の時代に比べて進んでいるように思えます。ただし、「福音が全世界に伝えられる」という言葉が具体的に何を意味しているのかは明確ではありません。全員が福音を受け入れるわけではないと思われますが、厳密に全ての人が福音を理解するレベルまで宣教が進むということなのか、単にそれぞれの国や民族の単位で、何らかの宣教活動がなされているという意味なのかも定かではありません。また現在、キリスト教人口よりもイスラム教人口の増加が進んでいますが、そのような「人口」の増減だけで判断できるようなことでもありません。ですから、「その時はだれも知らない」という言葉を真摯に受け取る必要があります。
一方で、反対に、再臨を霊的、心理的な出来事に限定し、この世の事象と切り離してしまうアプローチがあります。いわゆる「黙示思想」は、当時の世界観であり、その枠組みで福音を宣べてはいても、枠組み自体は時代・地域によって異なるのですから、その象徴的な言語をあまりにも字義通り解釈するのは問題だとは言えます。再臨、復活といった事柄は、現在の世界の延長ではありませんから、霊的な次元を重視すべきなのは当然です。ただし、霊的だというのは単に心理的ということではありません。心も体も環境も全て神の被造物であり、それが神の霊に導かれているのが霊的ということです。ですから、再臨を死後に神の前に出ることと完全に同一視するのは聖書的ではありません。神は個人だけでなく歴史の神であることは大切な真理です。
個人の内面であれ、社会全体の広がりであれ、多くの苦難の中で生きていることに変わりはありません。その苦難はどんな意味を持つのかという悲痛な問いがありますが、それに対して福音は「産みの苦しみ」という比喩で答えています。「今の時のいろいろの苦しみは、将来わたしたちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と使徒パウロは言っています。さらに、被造物全体も共にうめき、共に産みの苦しみをしているとも書いています。再臨待望は、単に現状に対する絶望と「外圧」による強制的な問題解決ではありません。むしろ、すでにこの世に来られ、私たちの霊と共にうめき、とりなしをしておられる聖霊に導かれ、将来啓示されるべき、想像を絶した栄光を待ち望むことが産みの苦しみであり、それこそが、まさにキリストの再臨を待望することなのです。
<考察>
1.「終末」という言葉から何を感じますか?
2.「再臨」と「死」と、どのように関連するでしょうか?
3.「産みの苦しみ」とありますが、何が生まれるのでしょうか?