メッセージ要約 2022年5月15日
マタイ福音書23章34節から39節 「イスラエルの悲劇」
23:34だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
23:35それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。
23:36まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
23:37ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
23:38見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
23:39あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
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前段(13節〜33節)では宗教指導者たちの偽善が厳しく指摘されています。表面ばかり立派で中身が伴わないという典型的な偽善や、「誓い」に関する話のように、本質から外れた細かい教理の問題が取り上げられています。(誓いについては注意が必要です。ここの議論だけ見ると、正しい誓い方の話に見えますが、イエス様のことばは単刀直入であり、それは「誓うな」というものです)。それにしても、このような宗教指導者の偽善が、今回の箇所で言われている「エルサレム崩壊」とどう関連するのでしょうか。それが今回のテーマです。
紀元70年頃の「エルサレム崩壊」とそれに続く「ユダヤ人の離散」の直接の原因は、熱心党などによるローマに対する武力による独立運動と、それに対するローマ軍の徹底的な武力介入です。もちろん、そもそもローマ軍が傀儡政権を立て、民衆から搾取をし、ユダヤ教信仰を冒涜するような行動まで取ったがゆえの反乱(独立運動)ですから、まずは、責められるべきはローマ側であることは当然です。しかし、そのこととパリサイ人らの偽善は別問題のように見えます。ローマにとっては、ユダヤ教内の律法問題など、どうでもよいことだったのですから。
これに関連して、武力による独立運動自体が間違っていたという議論もあります。イエス様の教えに「無抵抗主義」を見る立場からすれば、抵抗したからこそ祖国が壊滅してしまったということになります。実際、逃げるように言われていたイエス様の弟子たちは生き延びたということもあります。(ただし、逃げたため「非国民」として決定的に排除されるようになったという面もあります)。しかし、それだけでは、宗教家の偽善との関連はわかりません。
ですから、「偽善」を単なる宗教家個人の言行不一致の問題に矮小化するのではなく、「律法主義」そのもののこととして理解しなければなりません。そして、律法主義と、イスラエルの歴史で繰り返されてきた(つまり外国による迫害ではない)迫害が関連しているというのが今回のポイントです。その迫害は、「わたし(神)が遣わした預言者、知者、律法学者」に対するものです。預言者たちが迫害されて来たことについては何度も語られています。多くの場合、彼らが権力者の腐敗や不信を責めたことに対する報復として迫害されました。ただ、ここでは預言者だけでなく、知者、律法学者など、幅広い人たちも挙げられています。ですから、まさに義人たちの流された血全般のことが問題とされているのです。
それが、どのように律法主義と関係するのでしょうか。律法主義の本質は「他者の支配」と「自己義認」であることが関係します。「律法」とは生活全般を律するシステムのことですから、それは必然的に政治的、経済的、宗教的な支配力を持ちます。それ自体は、現代では「法治主義」と呼ばれ、悪いものではありません。しかし、それが絶対化されれば、人を抑圧し、はみだした者を排除する道具となってしまいます。人を守るための法であるはずが、いつの間にか、法を維持するために人が存在するという本末転倒が起こるのです。法も運用しなければ意味がありませんが、しばしば権力者の都合によって恣意的に運用されることもあります。そして、既存のシステムが間違っていても、システム維持のために正しい人を排除するということが起こるのです。
そして、律法主義は自己義認の道具ともなります。律法を守るためには、まず自分自身の言動を常にチェックしなければなりません。いわゆるモニタリングです。現代社会では、無数の監視カメラが人の法律違反を見張っていますが、それを自分自身に対しても行わなければ、厳密に律法を守っているかどうかわからないのです。これの問題は、自分の意識が自分自身に集中するということです。そして、モニタリングの結果次第で自己評価するのです。そして結果が良ければ自分を褒め、悪ければ反省したり落ち込んだりします。悪い時には謝罪の祈りや償いの業をするでしょうが、目的は、次回こそ自分を褒められるようになることです。
もちろん、本人はそうは言わないでしょう。自分は神に仕え、神に喜ばれるために頑張っているのだと。律法を守ること自体が目的なのではなく、あくまで神を愛しているからこそ、その教えを守っているのだと。それが本当であれば素晴らしいことですが、それが本当なのか建前なのかは、言葉ではなく実によって明らかになるしかありません。
神を愛しているというのは、神の心に共感するということです。その心とは恵みとあわれみと慈しみです。自分の行動に集中し、肝心の神の心をないがしろにしているではないかとイエス様はおっしゃいます。つまり、彼らの律法重視は結局建前なのです。その建前を押し通す時に、彼らの律法解釈から外れているように見える人に対する敵意が現われるのです。律法主義者にとって「義人」とは彼らと同様の律法により自分を義とする者のことですが、実は「義人」とは、人ではなく神が恵みによって義としてくださった人なのです。
人の義と神の義は相いれることがなく、人の義は神の義を排除します。そして、今や神の義の最終的な現れであるキリストも排除しようとしています。そして、神の恵みの証しであるはずの民とその都も、人間の義と熱心によって飲み込まれてしまう悲劇の道を歩んでおり、イエス様は深い嘆きと痛みをもって語っておられるのです。
最後に、この箇所から誤った結論が引き出されることがあるので注意が必要です。すなわち、ユダヤ人はキリストを殺した呪われた民族だという「反ユダヤ主義」です。以前にも学んだように、聖書はユダヤ人が自分たちについて書いたものであり、彼らの負の部分も公開している書です。それは、人の罪を克服して現れる神の義を証しするためであり、十字架の向こうには復活があるのです。そして、さらにその彼方には「再臨」の希望があります。キリストに向かって「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とユダヤ人が叫ぶ時は必ず訪れるということです。現に、世界中に離散したユダヤ人は現代において帰還をはじめ、その中の一部の人たちは、この言葉を再び発するようになっています。私たちは、絶望の叫びの向こうに、福音の希望を見るのです。
<考察>
1.13節から33節までに取り上げられている「偽善」について考えてみましょう。
2.特に29節から32節は何を意味しているのでしょう?
3.現代版律法主義社会の実例を考えてみましょう。