メッセージ要約 202258

マタイ福音書231節から12節 「偽善について」

 

23:1そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、 23:2こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。 

23:3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。 

23:4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。 

23:5彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。 

23:6また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、 23:7広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。 

23:8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。 

23:9あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。 

23:10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。 

23:11あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。 

23:12だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

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イエス様は宗教指導者との問答の後、彼らに関する厳しいことばを語られます。その細目に入る前に、マタイ福音書の読み方を確認することが重要です。マタイ福音書では、イエス様は律法を廃棄するためではなく完成するために来られたと記されています。そこから、キリスト教の律法主義という問題が出てくる可能性があるのです。

 

このことを押さえて今回の箇所を読みましょう。ここでイエス様が言われるのは、パリサイ人の言うことは守るべきだが、彼らの行ないは真似てはならない。彼らは言うだけで自分では実行しないからというものです。

彼らの言うことを守るのは、彼らが「モーセの座」についているからです。それは、モーセ律法の解釈をする権威があるという意味です。(口伝律法とも言われ、律法の実施に関しての細目を定めたもので、律法本体と同等の権威があるとみなされていました)。この箇所を額面通りとると、宗教指導者は口伝律法を説くだけで守っていないが、キリスト者は守るべきだという考えになってしまいます。これは明らかに福音書でこれまで学んだことと異なります。「律法の完成」は口伝律法の実行ではなく、キリストにおいて成就したのです。

 

ですから、彼らの問題は、口伝律法に対する不徹底そのものというより、人に見せるために、あたかも律法の実行者であるかのように演技しているということでしょう。この「演技」というのは「偽善」と同じ意味です。この「演技」は、当時の宗教家だけの問題ではなく、すべての信仰者に関わる問題です。人が「演技」をするのは、他人から良く見られたいからでしょう。いわゆる承認欲求を満たしたいからです。そして、すでに学んだように、「承認欲求」が高じると「支配欲」となるという大問題があります。これは、あらゆる分野で起こることですが、特に宗教においては、演技を見破るのが難しい場合が多々あるので注意しなければなりません。それが難しいのは、宗教に「儀式」がつきものだからです。儀式は集会だけでなく、個人の行動まで様々なものがあります。

 

ここで「経札」や「ふさ」と呼ばれているのは律法を表す物品ですから、キリスト教で言えば、立派なガウンを着て、大きな聖書を手にして歩いているようなものです。ガウンを着て敬虔になり聖書を持つだけで神の意思がわかるなら簡単ですが、だれもそのようなことは信じないでしょう。それにも関わらず、そのようなことは平気で行われています。聖書に手を置いて祈るなどという習慣も見られます。問題は、そのような行為が演技なのかどうか見分けがつきにくいことです。他人から見て区別しにくいだけでなく、行っている本人さえわかっていないかもしれません。真剣なので祈りが長くなっているのか、人に聞かせるために祈っているのかは本質的に異なるのですが、結局その違いは、他人から良く思われたいという気持ちがあるかどうかによって決まってきます。

 

イエス様の弟子に対することばは明快です。「先生」「父」「師」などと呼ばれるな、つまり、お互いに使うなというものです。「先生」とは「ラビ」と呼ばれているユダヤ教指導者ですが、神と人との間に立つ「聖職者」ではなく、律法の教師のことです。ただし、律法は生活全般に関わっていますから、地域の「名士」として尊敬されるということもあったでしょう。「父」も祭司、預言者、指導者に対する尊称です。「師」は教師のことで、聖書ではここだけで使われている単語ですが、指導者として同様に解釈して良いでしょう。キリスト教で言えば、「神父様」「牧師様」「先生」などという尊称です。イエス様は単純に「使うな」と言われていますが、なぜか普通に使われています。尊称ではなく単なる役割の名称だという理屈からでしょう。

 

肝心なのは、単に言葉の用法ではなく、その背景にある大事な真理です。つまり、「父」は天の父おひとりであり、師はキリストだけであって、信徒は皆、兄弟(姉妹)だという真理です。これも、「何々兄弟」と呼ぶかどうかという用法ではなく、事実としてそうなのかという問題です。そして、師は本当にキリストおひとりなのか、それとも「キリストの代理人」がいるのかということです。ローマ法王がキリストの代理人なのか、プロテスタント教会の牧師が「師」なのかということは、真剣に考えなければなりません。因みに、聖書では、牧師、教師などの役割・賜物が教会にあることは否定していません。しかし、彼らは、いわゆる「一般信徒」と違う、一段上の存在だというわけではありません。教会(キリストのからだ)の各部分にはそれぞれ異なった役割がありますが、そのうちのどれが上だとか尊いとかいうことはありません。キリストご自身をかしらとした「からだ」は一体なのです。もちろん、信徒個人はそれぞれ異なった成長段階にありますから、教会内での指導、訓戒はあり得るし、時には必要でしょう。しかし、それは当然、互いに成長するためになされるのであり、自分の敬虔さを見せるなどということとは無関係です。というのは、互いの成長に必要なのは、互いに仕えるということであり、しもべとしての働きが根本だからです。

 

しかし、キリストだけが師であり皆平等であったら、教会はバラバラになってしまうのではないか。それを防ぐにはしっかりとした組織が必要ではないか、このように人は考えるものです。結局「律法」が必要だと言います。人類皆兄弟などという理想論は、性善説に立っているのであり、人は皆罪人であるという「性悪節」から見ればあり得ないということになるでしょう。これに対する聖書の答えは明確です。「あなたがたは、キリストから受けた注ぎの油がとどまっているので、だれからも教えを受ける必要がない」(第1ヨハネ227節)というものです。油は聖霊を表しています。キリストが師であるということは、聖霊がすべてを教えるという意味です。真に聖霊に導かれているのなら、分派・分裂など起こりようはありません。逆に言えば、自称指導者や組織が人を支配し、分派・分裂があるのなら、それは聖霊に導かれていない何よりの証拠です。ですから、結局求められているのは、聖霊に満たされ導かれ、みことばに照らされて謙虚に歩むという基本に固く立つということです。

 

<考察>                                                            

1.そもそも儀式とは何でしょうか。どんな役割があるのでしょう?

2.現代では逆に「先生」が尊敬されないことも多いですが、「悪平等」にはどう対処したらよいでしょう?

3.自称「聖霊に満たされた者」が乱立する時、どう対処したらよいでしょう?