メッセージ要約 202251

マタイ福音書2241節から46節 「先在のキリスト」

 

22:41パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。 

22:42「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」 

22:43イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び

22:44『主は私の主に言われた。
わたしがあなたの敵を
あなたの足の下に従わせるまでは
わたしの右の座に着いていなさい。」』

と言っているのですか 

22:45ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」 

22:46それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。

 

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パリサイ派やサドカイ派の指導者たちから悪意ある質問を一通り受けられたイエス様は、一連の問答のしめくくりとして、今度はご自分の方から質問されます。宗教指導者たちからの質問は、「宗教家の権威について」「政治と宗教について」「復活の有無について」「律法の内容について」などの、いわば宗教の細目や神学についてのものでした。それに対して、イエス様は、一番肝心なことを単刀直入に問われます。まず「キリストについてどう思うのか」という問いです。聖書が語っているのは結局そのことですから、これは当時のパリサイ人に限らず、私たち皆にも問われているものです。

 

この問いに対する答えは、一般的に言えば、「イスラエルを外国勢力から解放し、エルサレム神殿を中心とした祭儀とモーセ律法によるユダヤ社会の回復と確立をもたらす者」ということになるでしょう。それに加えて、預言者たちの中には、「異邦人諸国もイスラエルの神権秩序に加わり、世界に平和が訪れ、さらには自然界も回復する」という壮大なビジョンを提示する人たちもいて、そのような「この世の終わりと新しい世界の到来」がメシヤ(キリスト)の到来とともに実現すると言う者もいました。当時の宗教指導者や一般の人々が、どれほど預言者のビジョンを共有していたかは不明ですが、基本的な部分(前半部分)については一致していたものと思われます。異邦人である私たちから見ると逆に後半の預言者のビジョンの方が身近に感じられるかもしれません。いずれにしても、これらの事柄は、「メシヤ(キリスト)は何をするのか」という問いに対する答えです。

 

イエス様は「キリストについてどう思うか」と問われたのですから、彼らの答えも当然そのようなものであったでしょうし、イエス様もそれに対して議論する必要もなかったでしょう。そこで、イエス様はこの問いを付け加えます。「キリストはだれの子なのか」という問いです。これは「キリストは何をするのか」ではなく「キリストはだれなのか」というものであり、質が異なる問いです。現代風に言うと「doing」(行為)ではなく「being」(存在)に関する問いです。もちろん、一般的に、存在のない行為はなく、行為のない存在もないのですから、両者を切り離すことはできません。よくユダヤ文化(そして東洋文化も)は行為を優先しギリシャ文化(西洋文化)は存在を優先するなどと言われますし、確かにそのような側面もあるかもしれませんが、それはあまりにも大雑把な分類であり、役に立つものではありません。

 

そのような一般論ではなく、このケースに限って見ると、イエス様の問いは「キリストはだれの子なのか」という具体的なものであり、この場合には「存在」がまず先にあることが分かります。子が何をしようが、親がだれなのかは変わらないからです。この問いのポイントは、イエス様が「だれの子なのか」ということによって「キリストは何者なのか」ということを問うているということです。しかし、そのような「キリストの存在」そのものについては答えることができないので、単に「ダビデの子」だという、いわば神学的な答えをします。それは神学としては正解ではありますが、イエス様が問題にしているようなことではありません。と言うのは、問いの本質は、イエス様はだれなのかというものだからです

 

宗教家たちの、この形式上の正解にたいして、イエス様はするどく切り込みます。「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのか」という問いです。この問いに答えようとすれば、この詩篇で「私の主」と呼んでいるのはメシヤのことではない」というしかありません。しかしそうなると今度は、その「主」とはだれなのかということになります。実際、ユダヤ教の中には、メシヤが二人して、それは「ダビデの子」と「ヨセフの子」だということを言う人もいます。もちろん、この詩篇の「私の主」がヨセフの子だという根拠は何もありません。いずれにしても、このような神学論争は尽きることはないのです。イエス様は、彼らを単純な理屈では回答不可能なところに追い込んだため、その後彼らは質問することができなくなってしまいました。もっとも、彼らが質問しなくなったのは、ある意味賢明だったとも言えます。と言うのは、「三位一体の仕組み」「神の主権と人の自由意志」など、数々の神学論争は果てしなく続いていて、当時のパリサイ人よりも今の方が状況が良いとは思えないからです。

 

もちろん、イエス様は彼らを袋小路に追いこんだだけではなく、積極的なメッセージも語っておられます。それは、キリストは時間・時代を超越した存在だということです。ダビデが主と呼んだのは単なる「神」ではなくキリストなのですが、それはダビデの時にすでに天におられただけではなく、後に「ダビデの子」として現れるお方でもあります。整理すると、キリストは「神の子」であり同時に「人の子」でもあるということです。それが、キリストの存在であり、それは彼が何を行うのかということに先立っています。しかし、ここで問題があります。私たちは、だれかの存在をどのようにして認識するのでしょうか。外見から始まりますが、結局その人が何をどうするのかという「行為」によってしか判断できないのではないでしょうか。これがまさにここで問われていることです。

 

「キリストはだれか」という問いは「イエス様はだれなのか」という問いになるのですが、それに対して私たちはどのようにして答えるのでしょうか。常識的には、イエス様の言動から判断するということでしょう。つまり行為によってです。しかし、イエス様の同じ言動に接した人々でも、少数の弟子と多数の反対者に分かれるのです。ですから聖書にあるとおり、「だれも聖霊によらなければイエスを主と告白することはできない」のです。これを一般化すると、人の存在すなわち人格は、その人の外見や行為に先行するが、それを真に知るためには、神の恵みが必要だということです。「人格」とは「神のかたちに似せて造られた存在」のことだからです。

 

<考察>                                                            

1.ユダヤの一般的なメシヤ理解についてどう思いますか?

2.人を判断する時に、生まれ、環境、行動以外に何を基準にしますか?

3.改めて「キリストについてどう思うか」という問いに向き合いましょう。