メッセージ要約 2022424

マタイ福音書2234節から40節 「律法の要点」

 

22:34しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。 

22:35そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。 

22:36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 

22:37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 

22:38これがたいせつな第一の戒めです。 

22:39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

22:40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 

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これまで、政治や宗教など問答を繰り広げ、なんとかイエス様をわなにかけようとしてきた宗教家たちですが、ここで要点となる質問をします。イエス様は律法をどうとらえているのかという問題です。彼らから見ると、イエス様は律法を無視しているようでした。とは言え、イエス様は聖書の言葉から答えられていますし、そもそもユダヤ人であることと律法の世界で生きていることが否定できない以上、律法をどう心得ているのかを突き詰めることが重要でした。これも罠にかけようとしての質問ですが、今回のイエス様の答えはきわめて「正統的」なものでした。

 

第一の戒めと言われている「主を愛せ」は、その前に「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である」とあり、シェマ(聞け)と呼ばれるユダヤ教の根本信条の祈りです。敬虔な人は、死ぬときにはシェマを唱えて死ぬことを願っていると言われるほど、ユダヤ人の信仰の根本を表していて、これが一番大切な戒めであることは皆が同意していました。全身全霊で神を愛すべきなのは、主(ヤハウェ)が唯一だからです。この唯一というのは、おそらく当初は、ヤハウェだけがあなたがたユダヤ人の神なのだから、徹底的にヤハウェだけに仕えよという、いわゆる「拝一神教」の意味でしたが、次第に信仰と思索が深まり、そもそも神は唯一であるという「唯一神教」を意味するようになっていました。いずれにしても、「主を愛す」とは、ヤハウェのみに仕える(つまり他の神に走って偶像崇拝をしたりしない)ことでした。そして、その「主に仕える」ことイコール律法を守るということだったのです。ですから、彼らの「唯一神教」は、「拝一神教」プラス「排他神教」だと言えるでしょう。

 

しかし、イエス様がご自身の「父」と神を呼ばれる時に、まずその「神」が真に唯一の神であることはもちろんですが、それは抽象的にただ唯一だということではなく、普遍的であることを意味しています。つまり、特定の個人、団体、民族などに制限されるようなお方ではないということです(遍在と呼びます)。神は神であって、ユダヤ教の神とかキリスト教の神といったものがあるわけではありません。宗教はそれぞれの形で神を定義しますが、神はそのような定義に制限されないのです。神がモーセに語られたように、「わたしはわたしだ」というのが本当の自己表現であり、ヤハウェとは、それをあえて三人称で呼んだ時の名です。いわゆる固有名詞ではないことに注意が必要です。

 

私たちに求められているのは、神の定義ではなく、神とのかかわりです。そのかかわりが、イエス様のようであるかどうかということなのです。肝心なことは、イエス様が「わたしの父」と呼ぶお方が私たちの父であるのかです。そして、だれがイエス様の父を私たちの父と呼ぶことができるのか? これこそが問題なのですが、神が普遍的であるならば、当然、あらゆる人に神を父と呼ぶ可能性が開かれているはずです。(もちろんそれは可能性のことであり、必ずしも皆が父と呼ぶようになるとは限りません)。だからこそイエス様は、「罪人」の友となり、当時は下に見られていた女性や子どもも受け入れ、ついに、福音は異邦人に開かれ、全世界に伝えられるようになったのです。このイエス様の福音を否定するのは、神が普遍であることを否定することであり、実質的に「神は唯一である」ことも否定しているのです。ここに、同じ「シェマ」を称えていても、イエス様とパリサイ人たちとの間には決定的な違いがあることになります。

 

これが最も大切な戒めですが、しかしまだこれだけでは事の半分にしかなりません。神が普遍だと言っても、無味無臭のような漠然とした普遍ではありません。イエス様の父は、恵みとあわれみに富むお方です。もちろん、このこと自体は、ユダヤ人が昔から告白してしてきたことです。しかし、その神が、すべての人に語りかけ、手を差し伸べておられるとなると話が変わってきます。つまり、それによって、「あなたの隣人」の意味が異なったものとなるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めが、対人関係に関する律法の要約であることは共通の理解でしたが、その意味を理解することは単純ではありません。「自分自身のように愛せ」という文を、しばしば「自分自身を愛しているように他人を愛せ」と理解することがありますが、普通それを、「人からされて嫌なことは人にするな」という一般的な道徳レベルで捉えています。さらにそれを逆にして、「人からされて嬉しいことは人にせよ」という風にも言います。しかし、自分と他人は異なるので、そのようなことがうまくいく保証はありません。むしろ、たとえ自分にとっては嫌なことでも、他人が喜ぶならしてあげることも必要なことがあり、その方が倫理的だとさえ言えるでしょう。

 

そこでユダヤ人はこの文を、「あなた自身のような隣人を愛せ」というように読むことがあります。つまり、自分自身に似たものを隣人と呼ぶということで、もちろん文法的にも問題はなく、なにより常識にかなった解釈です。そして、モーセ律法も、少なくとも文字面からすれば、隣人とは同胞のことであり、せいぜい在留異国人までを意味しています。ただし、たとえそうであっても、すべての同胞を愛すことはできませんから、自分に似た人を選択するようになるというのが実情です。ですから、結局「隣人とは結局だれのことなのか」という問いが重要になるのです。

 

ここで、第一の戒め「唯一の神」、「あわれみ深い父」と隣人愛の問題がつながります。つまり、神が普遍であり、すべての人を招いておられるという前提で隣人を考えなければならないのです。出発点は、隣人もまた普遍的だということです。つまり、特定の民族、宗教、性別、地位などに限定されません。しかし、それをただ単に「全人類」と言い換えるだけでは意味がありません。神の招きは具体的であり、その恵みも具体的です。可能性はすべての人に開かれていても、一人ひとりの状況はそれぞれです。ですから、「あなた自身のような」、つまり、「罪人である自分が神に招かれているような」人が具体的な隣人なのです。罪人である自分が神のあわれみを受けているから、自分の前にいる罪人も神のあわれみを受けることができるということが隣人愛の前提だということです。罪人を招くイエス様は、私もあなたも招いておられる、つまり福音がすなわち隣人愛なのです。結論として、福音こそが最も大切なこと、すなわち、唯一の神を全身全霊で愛し、自分のような隣人を愛すことであることを常に覚えていましょう。

 

<考察>                                                            

1.罠とありますが、パリサイ人は何を期待していたのでしょうか?

2.「拝一神教」と「唯一神教」の違いを整理しましょう。

3.「罪人が罪人を愛す」ことの具体的な形を考えてみましょう。