メッセージ要約 2022年4月17日
マタイ福音書22章23節から33節 「復活についての問答」その2
22:23その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
22:24言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。
22:25ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26次男も三男も、七人とも同じようになりました。 22:27そして、最後に、その女も死にました。
22:28すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
22:29しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
22:30復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
22:31それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
22:32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
22:33群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
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本日は復活祭(イースター)です。福音の中心はキリストの復活であり、その復活があれば全ては良し、なければ希望なしという、まさに信仰の核心です。ただし、それが一旦死んで埋葬された人が生き返った出来事とだけ捉えられるのなら、本質を見失ってしまいます。そこで、今日改めて、先週同様イエス様が語られた復活のメッセージから学びたいと思います。
結婚の話から始まった問答ですが、要点は、来るべき神の国は、今の世界とは全く異なるということです。しかし、サドカイ派の人(そしてパリサイ派の人)は聖書も神の力も実質的に知らない(イエス様のような形で知らない)ため、今の世界の延長としてしか考えられないということでした。問題の本質は、天国や死後の世界の様子の描写ではなく、神ご自身を知るということであり、イエス様の結論は、アブラハム、イサク、ヤコブの神は、死んだものの神ではなく生きたものの神であるから、復活はあるというものでした。
この結論が今回のテーマですが、これに関して、ルカ福音書では、さらに「神に対しては皆が生きている」という言葉が加えられています。ポイントは、復活を時系列(死んだあとに生き返るという順番)の観点ではなく、神の本質と神と人との関係という観点から語っていることです。このことをよく見ていきましょう。
「わたしは(あなたの父の神)、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、モーセに神が現れた時の言葉です。単純に読めば、先祖伝来の神だということで、不思議なものではありません。それは、「わたしは、アブラハムが生きていた時に信じていた神」(以下同様)というように理解するのが普通だからでしょう。原語(へブル語)では、アブラハムと神という二つの単語(名詞)が連結している形になっています(後の名詞が前の名詞を修飾)。ですから鍵は、その連結をどうとらえるかということになります。所有格のような意味にもなりますが、「アブラハムが所有していた神」と解釈することはできませんから、「アブラハムが信じた」とか「アブラハムに現れた」など、文章を付け加えて理解せざるを得ません。そして、この「連結」が現実には何なのかということが、まさにここの問題なのです。
イエス様が「アブラハムの神」云々を言われる時、その神は、神一般のことではなく、イエス様の神のことでもあります。それは、漠然と天のどこかにおられる神を信じているということではなく、そのお方はご自身の父であり、自分はその息子であるということです。ここでの「連結(つながり)」はそういう意味です。問題は、そのようなイエス様と父とのつながりが、アブラハムやヤコブたちにも適用できるのかということです。その答えは、「はい」でもあり「いいえ」でもあります。「いいえ」というのは当然のことで、イエス様が神のひとり子である救い主であるのに対して、他の人たちは救われるべき罪人です。立場が正反対なのですから、「つながり」も同じはずはありません。しかし、そのあり得ないはずのことが、不思議な形で可能になるというのが福音に他なりません。「つながり」どころか、神に反逆し、神から切り離されていたものが、キリストのゆえに神と和解させられ、神とつながるというのが福音です。その福音により、私たちはイエス様の兄弟姉妹となり、イエス様の父がわたしたちの父にもなるのです。
確かに、イエス様の聖書理解は驚くべきものです。アブラハムの神という「連結語」をそのように読むというのは尋常ではありません。しかし、イエス様は、文法を解釈してそのような結論に至ったのではなく、まず、父とのつながりがあり、そこから聖書を解き明かしておられるのです。それが、聖書学者たちとは逆に、聖書も神の力も知っているということです。
それでは、神につながった人とはどのような存在でしょうか。「神が永遠なので、神につながった人も永遠となる」という理屈もあるでしょう。しかし、それ以上に大切なのは、神と人とのつながりが、イエス様のようなものになるという事です。私たちの歩みもまたイエス様の歩みと一体化します。ですから、イエス様が復活された以上、私たちも復活するのは当然です。イエス様は、死者の復活についての一般論を語っておられるのではなく、今まさに十字架の死を引き受けようとしておられるその場所で、十字架の彼方にある復活を語っておられるのです。そして、ご自身につながる人々もまた復活すると宣言しておられます。ですから、イエス様の復活抜きに復活について議論するのは、単なる空想話に終わることを忘れてはなりません。また、単に「死後の世界はある」とか、魂は永遠だということでもありません。罪のないキリストと罪を赦された罪人がつながることが本質であり、キリストが復活し生きておられるので、私たちもまた生きるのです。
以上のように、私たちの復活はキリストの復活によるのですから、パウロは同じことを逆の方からも語っています。「死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう」。キリスト以前にまず前提として死者の復活があるというのです。これはどういうことでしょうか。それは、キリストの復活は突発的、単発的に起こった奇跡ではなく、死せる人類を復活させようという神の永遠の計画のゆえに実現したということです。そもそも、人が神から離れていることが異常です。しかし、その異常を正すにはキリストのいのちが必要でした。その「いのちの君」であるキリストとつながることにより、私たちは神とつながることが許されます。そして、神とつながる人は、「神のかたちに似せて造られた」本来の姿を回復する希望が与えられます。それが、すでに始まり今も続いている「霊的な復活」です。そしてその彼方に、死を超える「全人的な復活」があるのです。
<考察>
1.「復活」は尋常なことではないのに、世間で「復活祭」と気軽に年中行事として語られるのはなぜでしょう?
2.群衆は驚いたとありますが、サドカイ派の指導者はどう思ったでしょう?
3.「復活」と「生きかえり」との違いについて整理しましょう。