メッセージ要約 2022410

マタイ福音書2223節から33節 「復活についての問答」その1

 

22:23その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、 

22:24言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。 

22:25ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。 

22:26次男も三男も、七人とも同じようになりました。 22:27そして、最後に、その女も死にました。 

22:28すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」 

22:29しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。 

22:30復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。 

22:31それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。 

22:32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」 

22:33群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

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イエス様を捕えることが既定路線となっている権力側から、今度はサドカイ派の人たちがイエス様に論争をふっかけます。ただ、復活を否定するサドカイ側と復活を肯定するパリサイ側が結託している状況で、このような復活問答をふっかけるのは、とにかく何でもいいから言いがかりをつけていたように思えます。しかし、そのような状況でも、それに対するイエス様の答えから、復活についての重要なメッセージを受け取ることができるのは幸いです。

 

「家系を残すために、死んだ兄の弟が、兄の妻をめとるという規定がある以上、復活があったらその女は複数の男の妻になってしまい、律法に反することになる。故に復活などない」というサドカイ派の主張は、当時パリサイ派を攻撃するために使われていた議論のようです。これに対してパリサイ派は、その女は最初の夫の妻だと答えていたものの、サドカイ派を説得できていませんでした。日頃からパリサイ派を批判していたイエス様はどう答えるのかというのが論点です。因みに、サドカイ派はモーセ五書のみを聖書としていたので、預言書や諸書など後期の書に登場する復活の話を認めていませんでした。ですから、この問答の背景には、聖書の範囲をどこまで認めるかという大問題が隠れています。(例えば、新共同訳聖書に含まれている「旧約続編」は七十人訳ギリシャ語旧約聖書とカトリック教会版の旧約聖書に正典として含まれていますが、ヘブル語聖書とプロテスタント版には含まれていません)。

 

しかし、イエス様はそのような神学論争ではなく、事実問題を扱っておられます。そもそも正典の範囲の変化によって神の力が制限されるなどということはあり得ないことです。話は逆であって、まず神は死者を復活させることができるという「事実」が先で、そこから聖書を解釈していくべきなのです。というのは、死者を復活させることができないものに、神と呼ばれる資格はないからです。イエス様は、ご自分の父が死者を復活させることができることを「信じている」のではなく「知っている」のです。父を知っているのが「子」だからです。もちろん、「父」を知らない者にとっては、聖書の文字面を読んで、そこに書いてあると自分が解釈したことを信じるしかありません。ですから、正典の範囲や「正統的な解釈」などの神学論争に終始するのです。そして、そのような論争に決着などあるはずがありません。

 

イエス様は「事実」から出発し、サドカイ派も正典と認めていたモーセ五書から聖句を引用して答えられます。ただし、イエス様は宗教家との神学論争に入っていかれたのではありません。論点は、彼らの聖書解釈が間違っていることではなく、彼らが聖書も神の力も知らないということなのです。聖書を知らないというのは、正典の範囲や律法の解釈が間違っているのではなく、神のことば、つまり神の意志を知らないということです。つまり、聖書の文面の「解釈」を信じているだけであって、神を(イエス様のような仕方では)知らないのです。聖書解釈がおかしいのはその結果であるに過ぎません。

 

聖書(神のことば)も神の力も知らなければ、すべてを(たとえ神についての事でも)神抜きで考える他はありません。従って、復活についても、単に失われたものの回復以上のことは考えられません。復活後も今と同様の世界が(理想化されているとはいえ)存在するという前提があるので、結婚相手の話も出てくるわけです。イエス様は、そのような前提そのものがおかしいと言われます。因みに、そこで人は御使いのようだというのは、結婚がないという意味で言われているのであり、人間が天使になるということではありません。あくまでも、今の生物学的特徴や社会の仕組みの延長ではないということです。ただし重要なのは、復活はどのような状態なのかということには答えておられないということです。私たちの好奇心からすれば一番知りたいことでしょうが、今と根本的に異なる世界について、今の世界の言語で語ることは本来不可能であり、せいぜい、「それは何々ではない」という否定形か、「あたかも何々のようだ」という比喩でしか表現できません。それも非常に限定的なものです。例えば、「御使いのよう」という比喩も「今の世界にあるような結婚はない」という否定形だけで解釈すべきで、「御使いは霊だけで体はないのだから、からだの復活はない」という飛躍をしてはいけません。

 

このことを、もっと通俗的な表現をすれば、死後の世界の描写は、あくまでもこの世にいる者に対する警告と希望を語る「たとえ」であるということです。それ以上のことについての議論は無意味であり、「たとえ」が示しているものを見逃すことになってしまいます。そして、その指し示しているものの向うには神がおられ、その神ご自身が私たちを招いておられるのです。私たちに必要なのは、その招きに答え、神を知ることです。ゴールはイエス様が「父」を知っておられるように、私たちも「父」を知るようになることなのです。神の国を知るとは、天国の風景や制度を知ることではなく、その国の王がどのようなお方なのかを知ることです。ですから、イエス様の「復活」についての答えは、復活の仕組みではなく、神がどのようなお方なのかというものです。

 

イエス様は律法(出エジプト記)の一節を引用されます。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」 というのは、復活に関しての聖書解釈としては驚くべきものです。「わたしはある(エゴ・エイミー)」は、神の自己顕現の表現ですが、時間軸上では異なる時点で存在していた者それぞれに対して、神は常に現在であり、過去にはならないという事はわかりますが、そこから死者の復活が導かれるというのは常識的には謎です。他の福音書には、「神の前ではすべての人が生きている」という言葉もありますから、あわせて読んでいきましょう。

 

<考察>

1.「復活」という言葉から何を連想しますか?

2.神はいても復活はないと考える人もいますが、そのような考えの背景は何でしょうか?

3.イエス様の答えから何を受け取りますか?