メッセージ要約 2022327

マタイ福音書221節から14節 「披露宴のたとえ」

 

22:1イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。 

22:2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。

22:3王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。 

22:4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』 

22:5ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、 

22:6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。

22:7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。 

22:8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。 

22:9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』 

22:10それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。 

22:11ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。 

22:12そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。 

22:13そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

22:14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

 

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十字架を目前にして、イエス様は宗教家たちに対してさらに語りかけます。今回のたとえは、二つの部分からなっています。前半は、王の婚礼に招かれたにもかかわらず拒否した人々と、あとから招かれた不特定多数の人々との対比の話で、後半は、婚礼会場にいたにもかかわらず、礼服を着ていなかった人の話です。

 

前半は、これまで何度も語られてきたことで、最初に招かれた人たちが招きを断ったために、他の人たちが招かれたという、「初めの者と後の者の逆転」の話です。宗教家たちと、所謂「罪人」たちの逆転、そして、ユダヤ人と異邦人の逆転のことです。逆転と言っても、ただ予定の順番が入れ替わったというような生易しいことではないことが、このたとえから分かります。社長からの招待を断るだけでも一般の社員には難しいでしょうが、ここでは社長どころか王の招待です。それを最初は嫌がり、二度目には無視し、その周辺の者は、あろうことか、王のしもべたちを殺してしまったのです。言うまでもなく、これはほとんどありえない話ですが、そのようなありえないことが現実に起こっているということです。前に、跡取りを殺して農園を乗っ取ろうとした人たちの話を読みました。それも、非常に邪悪なことですが、少なくとも動機はわかります。しかし今回のケースでは、動機が不明です。招待はおいしい話ではあるが、たまたま都合が合わなかったとか面倒だったとかのレベルではありません。唯一考えられるのは、彼らは王や王子を憎んでいたという場合ぐらいでしょう。まさに「理由なく憎んだ」のです。(もちろん、王は神、王子はキリストのたとえです)。

 

もちろん、宗教家たちは神を憎んでいるなどとは思っていなかったでしょう。彼らに言わせれば、神を愛しているからこそ、律法を守っているのです。しかし彼らの従順は神のみこころに添ったものではありませんでした。神のみこころとは、人々をご自身の祝宴に招くことでしたが、この「祝宴」の捉え方が問題となります。ユダヤは律法主義が強いと言っても、決して規則ずくめの無味乾燥な信仰ではなく、そもそもイスラエルは神の花嫁であるという理解があり、詩篇でも歌われているように、そこには祝祭的な要素が強くあります。問題は、だれが祝宴に招かれるのかという点にあります。もし、この話で最初に招かれた人のような宗教家あるいはユダヤ人たちが、「自分たちだけが招かれた」と認識していて、しかも招かれたのは、彼らが宗教的エリートだからだと自認(実は誤解)していたなら、神の招待を断ることはないのかもしれません。しかし、神の恵みは彼らだけのものではなく、「罪人」たちに注がれているというイエス様の有様を見ている彼らは、そのような真の恵みの神を受け入れることができなかったのです。「放蕩息子の兄」のような状況ですが、それが単に不満にとどまらず、敵意にまで進んでしまうのが、罪の恐ろしいところです。

 

初めの招待客が排除された後、王は「手あたり次第に」客を招きました。良い人だけでなく悪い人も招いたというのだから尋常ではありません。もちろん、この世ではありえないことですが、神の恵みは全ての人に向けて注がれているのです。そして、多くの人が招待に応じて、宴会場はいっぱいになりました。ところが、そこに礼服を着ていない人がひとりいたというのが、話の後半です。これも不思議な話です。というのは、当時、礼服は自前ではなく、招待した側が用意して提供したので、礼服を着ていない人などいるはずがなかったのです。礼服が足りなかったとか、しもべが渡し損なったとか、密かに侵入してきたとか、色々な憶測がありますが、どれもありそうもない話です。しかし、話の要点ははっきりしています。皆招かれたのだが、結果として「選ばれていない」、つまり、招きに正しく応じていない者がいたということです。

 

神から備えられた服を着ているということが、招かれた者に与えられる条件です。使徒パウロはこれを「キリストを着る」と表現しています。キリストを服にたとえるのはイメージしにくいですが、実質的に「キリストのうちにある」「聖霊が与えられる」「イエスの名によって」など、多様な表現で言われていることと同じです。神はあらゆる人を招いておられます。いわゆる善人も悪人も、ユダヤ人も異邦人も全てです。そしてその招きに対して、初めから断る人もいます。敵対する人もいます。反対に、招きに応じる人もいます。ただし、応じる動機は様々です。神と共に喜びたいという人もいれば、タダで豪華な料理が食べれる(ご利益がある)のならという理由だけの人もいるでしょう。それが何であれ、備えられている「服」を着ることが必要です。自分の「名」(実体)では神の前に出ることはできず、ただイエスの名のゆえにそれができるのです。

 

神は、「キリストにあって」私たちが神の宴席に着くように招いておられます。というのは、この宴席はキリストの宴席だからです。ただし、福音はそれ以上のことを語ります。私たちは、もはや客として招かれているのではなく、花嫁として招かれているのです。福音書にはいくつかの婚礼を舞台としたたとえ話がありますが、客や花婿の友人が登場する時は注意が必要です。「花嫁」「新しいエルサレム」「教会(エクレシア)」は同じもの(キリストにつながった人々)を指していることを忘れないようにしましょう。神の恵みは全ての人に向けられている(招かれている)と同時に、招かれた者はキリストを着る(選ばれたものとなる)ことが、すなわち、キリストの花嫁となることなのです。

 

<考察>                                                                                                                  

1.人々が神の招きを断る理由には、どんなものがありますか?

2.宴会場には悪い人たちも招かれていましたが、宴会は大丈夫なのでしょうか?

3.「キリストを着る」という表現をどう捉えますか?