メッセージ要約 2022320

マタイ福音書2133節から44節 「礎の石」

 

21:33もう一つのたとえを聞きなさい。
ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。 
21:34さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。 21:35すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。 21:36そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。 21:37しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。 21:38すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』 21:39そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

21:40このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」 

21:41彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」 

21:42イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。

『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。
私たちの目には、不思議なことである。』

21:43だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。 

21:44また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」 

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エルサレム陥落という近未来の悲劇を予見しつつ、イエス様はなおも指導者たちに最後の語りかけをしておられます。すでにこれまでの象徴的な行動を通して示されていたように、神の民であるイスラエルは祭司としての実を結んでいませんでした。ただし、これは単に能力や努力の不足によるものではないというのが今回のポイントです。(人間の力不足は神はご存知であり、あわれみ深くあられます)。この譬えで言われているのは、神が何度も手を差し伸べてこられたのに、人々はそれをことごとく拒否してきたという現実です。

 

この譬えで、主人が何度もしもべを遣わしたというのは、旧約時代の預言者たちのことだと言えるでしょう。そしてその締めくくりがバプテスマのヨハネでした。イスラエルに神の指針を伝え、また彼らの罪を糾弾し、神にたち帰るように語り続けた多くの預言者たちがいましたが、基本的に預言者たちの言葉は受け入れられず、中には迫害を受け命を落とす者もいました。このような「背信のイスラエル」の姿が旧約聖書に克明に記録されています。ここで念のために確認しなければならないことがあります。エルサレムへの裁きや背信のイスラエルのような言葉が登場すると、いつでも登場するのが反ユダヤ主義です。まるでユダヤ人は呪われているかのごとく言う人々がいます。しかし、以上のような聖書のメッセージは、ユダヤ人自身が記したものであり、彼らの負の遺産を隠すことなく明らかにしているということを忘れてはなりません。そもそも、異邦人が外部からとやかく言う筋合いのものではないのです。

 

では、彼らは何故そのような負の歴史を公開しているのでしょうか。それは第一に神の義を明らかにするためです。人の闇が闇として認識できるのは、神の光が照らしているからなのです。第二に、神のあわれみを証しするためです。すなわち、神の裁きは絶望をもたらすものではなく、その彼方に救いと復活の希望を約束するものでもあるということです。この点については、「象徴的行動」の個所でも学びました。いずれにしても、イスラエルとユダヤ人に対する厳しいメッセージは、彼ら自身からのものであるであり、私たち異邦人は彼らを裁くことなどあり得ないということです。(ただし、このことは、現代のイスラエル共和国の行いを、無条件に肯定するということを意味しないのは当然のことです)。

 

さて、そのように預言者たちが遣わされても悔い改めなかった民に対して、神は最後の手段として、ご自

身の息子(神のひとり子)を送りました。言うまでもなくイエス様のことです。たとえ話では、息子なら敬ってくれるだろうと、主人は誤算していたようですが、もちろん、神に誤算などはありません。十字架は神のご計画なのですから。たとえ話の要点は、息子を送ったという一点ですから、そのような異同は無視してかまいません。

彼らは、息子も拒絶し殺してしまいましたが、その理由は重大です。しもべたちを排除したのは、収穫物の中から主人へ納めるべき分を横領するためでしたが、息子を殺したのは、息子の取り分、すなわち主人の全財産を手に入れようとしたからです。これは事実上、主人を殺そうとすることであり、この世では革命、軍事クーデターのようなものです。この世ではそれが成功することもありますが、たとえ話にあるとおり、神の国で成功することはありえません。

 

話を聞いていた者たちも、一般論としてはこのことを理解していましたが、自分たちがその不法な労働者だということは認めませんでした。彼らにとっては、亡国の危険をもたらしているのは、彼らのいう所の「罪人」であり、彼らとしてはそれを必死に排除しようとしていたのです。しかし、真の危機は、神の子を受け入れない、つまり神が差し出された恵みを無視していることでした。問題は、この神の恵みの拒否の背後に、恐ろしい意図が隠れていることです。すなわち、神のものを全て自分のものとしようという意図です。彼らは、自分たちがそのような意図を持っていることを認識していたでしょうか? むしろ彼らは自分たちこそ神の命令を忠実に行っている忠実なしもべだと自任していたのではないでしょうか。ここがまさに新約の核心なのです。

 

律法の世界で忠実なしもべというのは、命令、規則を遵守し、また他にも遵守を要請する人たちです。この世界では、当然、規則を破る者への罰があります。遵守及び違反の処罰が「義」ということになります。しかし、まさにこれこそが、パウロの言う「むさぼり」であり、律法を私物化することで、実質的には自分を神の立場に置こうとする罪なのです。律法に従うと自認する者が実は罪人であるという逆説がここにあります。この逆説は、単に観察や理屈の研究でわかるものではありません。よりによって、神のひとり子を排除するということによって明るみに出されるのです。神のひとり子は、神の恵みの直接的な現れであり、律法を私物化しようとする者にとっては邪魔者だからです。所謂「罪人」を受け入れ赦されたイエス様が律法違反者として断罪された理由がここにあります。

 

この逆説が人々に躓きを起こします。神の据えられた礎の石は、神の恵みの国の土台ですが、律法による人の支配を目指す者には破壊的なものとなるのです。この礎の石、すなわちキリストの福音は、キリストを拒否した律法至上主義者からは取り上げられ、所謂「罪人」と異邦人に与えられることになりました。ただし、それが最後ではないことも忘れてはなりません。

 

<考察>                                                                                                                  

1.「ぶどう園の主人」が旅に出かけていることについて、どう思いますか?

2.「律法の私物化」の具体例にはどんなものがありますか?

3.「反ユダヤ主義」と「ユダヤ絶対主義」の危険は、どのような所に見られますか?