メッセージ要約 2022年3月13日
マタイ福音書21章23節から27節 「権威について」
21:23それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
21:24イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
21:25ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
21:26しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
21:27そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。
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「権威」という言葉は、聖書のキーワードのひとつです。しばしば登場する重要な言葉なので、よく理解することが大切です。この言葉の意味合いについては、しばしば力と権威との対比という形で説明されます。例えば、聖霊が来られて力を受けるとか、神の子となる権威を受けるといった文章が例としてあげられます。「力」の原語は、ダイナマイトとか発電機に通じる言葉で、「何かを動かすもの」というようなニュアンスです。ですから、聖霊によって力を受けるという場合、明らかに世界宣教を遂行する力を受けるということになります。それに対して、神の子となる権威の場合、身分・資格という意味合いになるでしょう。もちろん、その身分・資格についても、その背後に何らかの力があることは前提となります。
よく例えに使われるのが警察官の場合です。走行中の車を停車させる時に使うのは腕力ではなくて警察官としての権威です。この区別は重要ですが、それが機能するのは、運転手が停止命令(すなわち警官の権威)に従う場合だけです。従わない場合は追跡から強制的に停車させる等の実力行使をする必要が出てきます。また、従う場合にはいつくかのパターンがあります。第一は「倫理的」なケースです。つまり、停止命令を受けた時に運転手が自らの過ちを悟り、反省して停車する場合です。第二は「実力(武力)行使」のケースです。つまり、反省はしないが、争うと力で負けてしまうので、しぶしぶ停車する場合です。この場合、権威というのは実質的には力とほぼ同様の意味合いとなります。整理すると、権威に対して、良心による従順がある場合と無い場合があり、無い場合は権威は単なる力関係の問題ということです。単純に言うと、力プラス倫理が権威となるでしょう。
昨今の大問題であるウクライナ情勢で例えるならば、国連(特に安全保障理事会)の権威が問題となります。冷戦時代からそうですが、米ロが対立している時には、実質的に何の権威もありません。国連憲章にいくら崇高な理念が掲げられていても、あるのは軍事力と経済力の力比べだけです。自国民保護、人権擁護、自由と民主主義など大義名分は語られますが、それは実力行使の言い訳に使われるだけです。この世界には、真に敬うべき権威などはなく、ただ力関係だけがあるように見えます。
では宗教の場合はどうでしょうか。単一の団体としては世界最大のカトリック教会の場合、ローマ法王が最高権威を持っています。現代では武力などの実力はなく、信徒からは敬意をもって慕われていると思われます。しかし、かつては「天国への鍵」を独占しているかのような時代もありましたから、死後での「実力行使」についての権威を持っていたと言う意味では、やはり力(言葉による力)を背景にしていたとも言えるでしょう。これはカトリック教会に限らず、多くの宗教に共通していることです。神への畏れは、畏敬なのか恐怖なのかという問題が常につきまといます。ところが、畏敬と恐怖を単純に分けることができないという問題があります。
私たちの持つ「神への恐れ」には二面性があります。本来、人は神に対して畏敬の念を持って接するべきであり、それが正しく神の権威に服するということになります。しかし、人は本来の姿から離れているという現実があります。すなわち、罪人の身としては、神の裁きを恐怖という意味で恐れることになります。ここで分かれ道に突き当たります。神の裁きを単に神の実力行使として恐れるならば、それは神の権威ではなく力を怖がっているに過ぎません。しかし、裁きへの恐れが、罪自体への恐れとなるならば、つまり「悔い改め」に進むものであるならば、話は変わってきます。その時に悔い改めを起こさせているのは実は神ご自身(つまり聖霊の働き)であり、その働きに自身を委ねるという意味で、神の権威に服していることになります。そして、その権威は、神の恵みの行使という権威であり、力と言えば力ですが、圧力をかけるようなものではなく、恵みへの招きであり、人の敵意と反発にも挫けることなく、「柔和」に忍耐を持って働きかけを続ける力なのです。
「権威」をこのように理解した上で、今回の個所を読みます。祭司や長老の文句は、イエス様の資格を問うということでしょう。正規のラビでもない者が律法を「改革」しようとし、祭司でもない者が神殿について重大な行動を起こすというのは、彼らからすれば全く不法なことであり、そんなことをする資格はイエス様にはないというのが初めから彼らの結論であったはずです。言い換えれば、イエス様は、彼らの権威に従わない、不敬な輩であるということです。そのような前提の人たちに「これは神から与えられた権威だ」と答えでも意味はありません。代わりに彼らにバプテスマのヨハネのケースについての見解を糺します。ヨハネもイエス様同様「正規」の宗教家ではありませんでしたから、人からの権威といったとしても、群衆からの支持という意味での権威に過ぎず、そもそもそんなものは真の権威とは認められないし、宗教家たちの権威こそ神からの権威だと言いたかったでしょう。ただし群衆を恐れてそれは言えませんでした。もちろん、天からの権威だと認めるはずもありません。
彼らが答えられなかったのは政治的判断が働いたからですが、結局人への恐れが基盤となっていました。すなわち、そこには神への恐れが、畏敬にせよ恐怖にせよ存在しなかったのです。ですから、神からの権威を語っていても、そもそも神の権威などは意識されていなかったことがわかります。
権威についての誤解も正しておかなければなりません。使徒パウロの「すべての権威は神から出ているのだから、権威に従うべし」という言葉をとらえて、「それならナチスでも従うべきなのか」など言う議論が起きることがありますが、世の中で「権威」と呼ばれているからそれが権威なのではなく、神への恐れ、すなわち罪への恐れと、その解決から生じる神への畏敬の念が「権威」の根拠であり、それなしには、祭司や長老の如く、権威を論じること自体が無意味なのです。自称「権威」が、それに反する者に対して「権威に逆らうのか」と詰問しても、答えることには意味はないでしょう。あくまでも神を恐れ、キリストと固くつながり、神の恵みの器として、神の子どもとしての歩みを貫くのです。宗教においても、その指導者はあくまでも神の恵みを指し示すしもべであり、神の代理者や仲保者のごとく権威を振りかざすことはできません。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」 (第一テモテ2章5節)
<考察>
1.「権威を敬う」ことと「長い物には巻かれろ」との違いを整理してみましょう。
2.自分にとって権威のあるものは何ですか?
3.ドイツの神学者ボンヘッファーについて調べてみましょう。