メッセージ要約 202236

マタイ福音書2118節から22節 「しるしと信仰」

 

21:18翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。 

21:19道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。 

21:20弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」 

21:21イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。 

21:22あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

 

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今回の個所は、イエス様がいちじくの木を枯らせたという不思議な出来事についてです。これが単に人間の話なら、腹をすかせた人が実がないいちじくに逆切れして枯らせたという、超能力の悪用のようなカルト話になってしまいますが、もちろん、これは「神殿のきよめ」とセットで行われた「しるし」です。(マルコ福音書では、いちじくのエピソードが神殿のエピソードを挟む形になっていて、セットであることがより明瞭になっています)。ただ、この「しるし」の直後に「信仰」についての対話が続いているので、話がわかりにくくなっています。そこで、まずは「しるし」について確認しましょう。

 

いちじくはイスラエルの象徴のひとつです。イスラエルが、祭司の民として諸国民に祝福をもたらすという使命を果たさなかった(実を結ばなかった)ために枯れてしまうという迫りくる艱難の予告で、前回読んだ、神殿での出来事と共通の内容です。イエス様は都に「帰る」途中でした。エルサレムは、象徴的にはイエス様の町であり、その神殿は彼の家でした。そこに帰るのですが、その時に空腹を覚えられました。イスラエルが実を結ぶ事を望んでおられたのに、それが実現していない状況を表しています。そして、そのような「実のない」状況は、いつまでもそのまま続くのではなく、いつか結末を迎えることを覚悟しなければなりません。それは、バプテスマのヨハネが語っていたことですが、この点についてはイエス様もそのメッセージを受けついでおられます。

 

いちじくが枯れたことと共に、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』というフレーズもありますが、信仰の力の例以前に、このことばも、そもそも「しるし」としての意味があります。「この山」は通常エルサレムを指していますし、「海」は異邦人世界の象徴です。ですから、これは、エルサレムが崩壊し、ユダヤ人が諸国に散らされてしまうことの預言として読むことができます。この「諸国に散らされる」というのは、イエス様が突然言い出されたことではなく、以前から預言者エゼキエルによって語られていたことです。バビロン捕囚を経験しているユダヤ人ですが、預言によれば、彼らは諸国に散らされますが、やがて神の一方的な恵みによって彼らは全世界から集められることになっています。そして、それは「新しい霊と心」が授けられる、新約のメッセージとセットで語られているのです。

 

この聖書的背景を見れば、イスラエルへのさばき、エルサレムの崩壊とユダヤ人の離散は、それ自体とてつもない悲劇ですが、そこで神のご計画が終わるのではなく、その向こうに、神の恵みによる回復と聖霊による神の国の確立という希望も与えられていることが分かります。この「悲劇」の預言は、数十年後に成就しましたが、ユダヤ人の諸国からの帰還は、なんと1900年程経ってから現実のものとなり、現在進行中です。神のご計画は計り知れず、しかも決して崩れることはありません。

 

以上のことを前提として、この箇所後半の信仰に関する部分を読んでいきましょう。単純に読めば、信仰とは信念のことであり、それが盤石ならば超自然的な力を発揮するということになります。しかし、以前にも取り上げたように、「この山」を障害物一般の比喩と解釈しない限り、この話は成立しません。そもそも、信念の力で超常現象を起こすというようなことは、福音の本筋から外れることになりますから、ここでの「信仰」の内容を吟味しなければなりません。

 

この箇所が、イスラエルとエルサレムに関する神のご計画についての預言であることはすでに確認しました。預言というのは、神の約束が真実である事の証です。「信仰」と訳されている言葉は、へブル語に戻ると、「固い」という意味から派生して、真実、確証、確信というニュアンスを持っています。神のことば・約束は確固たるものですから、その約束に対して「しかり」と答えることがすなわち信仰なのです。イスラエルやエルサレムに関する預言についても同様です。神のことばに「アーメン」と応答することです。繰り返しになりますが、「さばき」の預言に「しかり」と言うのは、さばきを望むという意味ではありません。さばきの預言は警告であり、悔い改めるなら回避されることもあるのです。反対に幸いの預言は必ず実現します。エルサレムの壊滅は残念ながら実現してしまいましたが、それで終わりではなく、必ず回復の預言は実現します。(そして現在、実現しつつあります)。それを含めて預言全体に対して「しかり」と答えるのが信仰です。

 

マルコ福音書の並行箇所では、質問する弟子たちに「神を信じなさい」と言われていますが、直訳すると「神の信仰を持ちなさい」となっています。信仰とは真実、誠実という意味であり、それに対して「アーメン」と応答しなさいということです。神の真実は、神のことばの現実性によって現れるのですから、神が言われたことを真に受け入れるならば、それが必ず実現するのは当然のことです。ただし注意すべきことは、神のことばを信じない人にとってはどうなるのかということです。実は、神のことばは、それを信じようが信じまいが実現します。人の心理状態によって左右されるようなものではないからです。ただし、信じないものにとってそれは、良くて無関心の事柄、悪ければ「さばき」となるのであり、遅かれ早かれだれもが関わることになります。ですから、私たちは今ここで「アーメン」と応答することが大切なのです。

 

最後に一番大切なことは、エルサレム・イスラエルに関する預言は重要ですが、それ自体はゴールではなく「しるし」であるということです。イスラエルの復活は、キリストの復活と、キリストにある人々の復活の象徴であるということです。神の究極のことばはキリストであり、キリストの復活こそが神の真実の証です。神の真実とは、ただ恵みにより主の名を呼ぶすべての者を救ってくださるということであり、それが復活により現実となりました。神がキリストを死者の中からよみがえらせてくださったこと(神の真実)を信じるなら(アーメンと応えるなら)救われるのです。いちじく(イスラエル)を枯らし、山(エルサレム)を異邦人に引き渡された神は、同時にキリストをよみがえらせ、今や罪の中で死んでいる私たちも、ご自身の真実と全能の力をもってよみがえらせることができます。それが福音であり、私たちは皆、この福音に対して「アーメン」と答えるのです。

 

<考察>

1.このイエス様の言動を、弟子たちはどう解釈したでしょう?

2.マルコ福音書では、その時はいちじくの実がなる季節ではなかったとあります。どういうことでしょう?

3.マルコ福音書では、この話の直後に赦しの重要性が語られています。なぜでしょう?