メッセージ要約 2022227

マタイ福音書2112節から17節 「神殿へのメッセージ」

 

21:12それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。 

21:13そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」 

21:14また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。 

21:15ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。 

21:16そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」 

21:17イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。

 

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イエス様がエルサレムに入られる時、ことばによるメッセージの他に、いくつかの行動による「しるし」(預言的な象徴行動)をされました。今回は、その中で「宮きよめ」という名で呼ばれることの多い箇所です。宮(エルサレム神殿)で、多くの商売がなされていたのをご覧になったイエス様が、過激ともとれる行動をとられたことで有名です。この出来事は、一面、宗教にビジネスを持ち込み、金儲けに走る宗教家への批判という形で理解されます。それは確かに重大な事柄であって、真剣に考えるべきものです。ただ、イエス様の今回の行動は、神殿から金銭のやりとりを締め出して、純粋に信仰の場所にする「きよめ」というよりも、別の「預言的な」行動として受け取る必要があります。

 

当時の神殿内や、その周辺で行われていたビジネスの詳細はわかりません。ただ、両替は、巡礼者向けに神殿税に換金するためだったようですし、鳩も実家からわざわざ持ってくる代わりに、現場で購入して捧げるために売っていたわけですから、怪しい占いの類や免罪符を売りさばいていたような、悪質な宗教ビジネスであったとは言えないでしょう。また、ルカ福音書によれば、少年時代イエス様はこの神殿にとどまり、律法学者らと議論されましたし、ヨハネ福音書によれば、この時以前にもイエス様はエルサレムに訪れておられますから、初めて神殿が汚れているのを見て憤り、過激な行動に出られたということは考えられません。

 

むしろ、これは、直後に行われるいちじくの木を枯らせたことと同様、預言的なメッセージとして捉える必要があります。イエス様が捕えられ死刑を宣告されたのは、主に二つの理由からでした。一つは律法違反、というより、律法の無効化とみなされた数々の言動であり、もう一つは、神殿崩壊の預言でした。律法無効化とは、ユダヤ民族のアイデンティティー喪失であり、神殿崩壊とは、イスラエル国の壊滅を意味しています。ですから、イエス様は、反ユダヤ、亡国の罪人とみなされたのです。これは、もちろん神の福音の観点から言えば全くの誤解ですが、反面、律法学者や祭司の立場から言えば、あながち根拠のないこととも言えません。律法については、確かに、より高い次元の聖霊の立場から律法を相対化したことは事実ですし、神殿に至っては、実際、のちにローマ軍によって破壊されてしまうのです。しかし、そのローマに、イエス様の弟子たちは武力で対抗しなかったのですから、日本的な表現で言えば、非国民と呼ばれてしまうのもやむを得ないことだったでしょう。

 

イエス様は、ある人々から「神殿を壊し、三日目に建てると言った」として糾弾されました。もちろん、三日目に建てるというのは、ご自身の復活のことを指しておられましたから、神殿破壊者というのはぬれ衣です。しかし、同時にイエス様はエルサレムを襲おうとしている悲劇について語っておられましたから、当然、神殿崩壊を予想させる預言もされていたでしょう。その預言と復活の話が一緒になって、イエス様ご自身が神殿を破壊するかのような話になったと考えられます。

 

そのような状況ですから、イエス様が神殿で行われたことは、神殿の崩壊を行動で預言したものと解釈できます。37年後に実際に起こったエルサレム崩壊は、人間の歴史観では、占領軍に軍事的反乱を起こした弱小国家の敗北ですが、神の国の視点では、それはある種の裁きでした。それは、本来、祭司の国として、神と諸国民に仕えるために召されたイスラエルが、その使命を果たさないどころか、積極的に神に反抗する事態になっていたために起こったことだというのが、預言者的な観点です。エルサレム神殿は、そもそも祭司の国の中心にあり、諸国民がそこで祈れば神が答えてくださるという意味での「祈りの家」でした。確かに、多くの国々から、ユダヤ人だけではなく、「敬虔な異邦人」と呼ばれる、親ユダヤ教とも言える人々が大勢エルサレム参りに来ていました。しかし、彼らは霊的な祝福を受けるよりも、捧げものに関する規定を守ることによる形式的な祝福を受けるだけであったと思われます。彼らは、いわば霊的な祝福を奪われていたという意味で、そこは強盗の巣窟とさえ呼ばれてしまったのです。そして、そのような状態の神殿とエルサレムが、そのままの状態で永続することは不可能でした。神殿の建物自体を壊すことなど、もちろんイエス様の望むことではありません。しかし、その内実について、はっきりと言葉と行動で示されたのです。

 

そのような危機的な状況にある神殿において、イエス様はなおも象徴的な癒しを行われました。祈りの家の祝福を可視化されたのです。また、子どもたちの「ダビデの子にホサナ」という声も、旧約聖書のことばの成就として受け入れられました。繰り返しになりますが、子どもとは、可愛らしい存在として登場しているのではなく、未熟で無知な存在であり、その証言は当てにならないものとして扱われていました。しかし、この世ではそうであっても、神はそのような「小さい者」を用いて、ご自身のメッセージを発せられるのであり、イエス様は子どたちの言葉を受け入れ、宗教家たちの言葉を退けられたというのは、とても重要なことです。

 

「祈りの家」としての神殿は、このように祭司の働きの象徴で、そこでは神と人が結びつけられるのです。その「人」とは、宗教の規定に縛られず、子ども、女性、いわゆる罪人、汚れた人、さらには異邦人までも含むあらゆる人のことです。この「家」において、神とあらゆる人々が結びつけられ、家族となることができるのです。この「家」でなければ、どんなに立派な宗教施設や組織であっても存在価値はありません。反対に、それはしばしば、人々を神から引き離す、「強盗の巣」となってしまう危険があるのです。

 

ただし、この「家」を人間的な方法で造ることは実際問題不可能です。イエス様は、エルサレム神殿に代わる、別の建造物を造ろうとされたのではありません。むしろ、ご自身の復活により、聖霊によってあらゆる人々が結びつけられる霊的な神殿を造るために来られました。この神殿は石でできた固定物ではなく、生きた人によって時間・空間を超えて構成された、「キリストのからだ」と呼ばれる活ける神殿なのです。この「からだ」に私たちは召されているのです。

 

<考察>

1.宗教と経済の関係について考えてみましょう。

2.イエス様の行動について、商人や客はどのように思ったでしょう?

3.神殿とキリストのからだの違いについて考えてみましょう。