メッセージ要約 2022220

マタイ福音書211節から11節 「エルサレム入城」

 

21:1それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、 

21:2言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。 

21:3もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」 

21:4これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。

21:5「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。
柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

21:6そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。 

21:7そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。 

21:8すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。 

21:9そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。

「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

21:10こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。 

21:11群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。

 

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いよいよイエス様がエルサレムに入られます。その時のシーンが、ゼカリヤの預言が成就したという形で語られます。ゼカリヤの預言(99節、10節)では、柔和な王が来られ、救いをもたらし、武器を絶やし、諸国に平和を実現するという「終末」のビジョンが語られています。(同様の「平和」のビジョンはイザヤの預言にもあります)。聖書でも、他のところでは、終末において、神が圧倒的な力をもって臨み、悪を打倒して平和が来るというイメージで書かれていますが、このゼカリヤ預言では、柔和な王が平和をもたらすとなっている所が極めて特徴的です。ここでのキーワードは「柔和」ですが、これについては、すでに「柔和なものは幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう」という「山上の垂訓」の一節から学んできました。さらに、イエス様がご自身のことを「柔和」と表現されています。この「柔和」の意味を確認していきましょう。

 

このことばはヘブル語では、「頭を押さえつけられ、虐げられる」という意味と、「へりくだり謙虚になる」という、両方の意味を持っています。 

「頭を押さえつけられる」とは、権力者や裕福な者の力の前で押さえつけられつつも、じっと持ちこたえている状態です。権力者や裕福な者との「力関係」だけを見ると「弱い」者とみなされますが、そのような状態で耐えられるという意味では「強い」のです。ただし、それは単に我慢するだけの力ではなく、神により頼んでいる忍耐です。これがすなわち、「へりくだっている」ということでもあります。

ですから、この「柔和」とは、ただ温厚な性格というだけのものではありません。イエス様を、何をされてもただニコニコしている穏やかなお方というイメージを持っていると見誤ります。時にイエス様は、神の義の現れとしての烈しい感情も示されました。(とは言え、人の怒りは神の義を全うしないと聖書にあるように、安易に自己の怒りを正当化すべきでないのは言うまでもありません)。

 

当時、祭司や高貴な者たちはロバに乗ることもあったそうですが、イエス様は、荷物を運ぶロバの子に乗られました。荷物は重荷の象徴と考えられます。この行為によって、ロバにまたがる支配者とは逆に、重荷を背負うというロバの子にご自身を重ねられたのでしょう。重荷を負っているものに呼びかける、「柔和」なイエス様の姿がそこにあります。イエス様は権力者や宗教家たちから自由であり、迫害は受けていても、「頭を押さえつけられている」という様子ではありません。しかし、重荷を背負い、それに耐えておられます。その重荷とは、人々の罪、汚れ、悩み、苦しみなど様々ですが、まとめれば、民全体の人生の重みといってもよいでしょう。すでに旧約聖書には「ほむべきかな 主。日々 私たちの重荷を担われる方。この神こそ 私たちの救い」(詩篇6819節)とありますが、その重荷の質が問題です。人間の愚かさや弱さ、律法違反の罪も、もちろん主の重荷となりますが、キリストがここで背負われるものは、人々が神の子であり、イスラエルの王であるお方を拒絶し、逆に罪に定めるという、神とイスラエルの関係においては究極の罪となるものです。つまり、イエス様は実質的には「ご自身に対する敵意」という重荷を背負われたのです。

 

しかし、この「重荷を背負う」行為は、自ら主体的に行われたというところがポイントです。より正確に言えば、それは神のご計画であり、そのご計画を自らの使命として主体的に引き受けられたものだということです。弟子たちがろばの子を連れてくる際に、イエス様の予告通りに事が進み、持ち主があっさりと承諾したことも不思議で、様々な詮索をする人もいますが、要はこれが神のご計画だったということです。イエス様が受けられた苦難を「受難」と呼ぶ習慣がありますが、普通、受難というのは苦しみを受ける、いわば受け身のニュアンスがあります。しかし、イエス様は「苦しめられた」のではなく、自ら進んで「苦しまれた」のです。ろばの子にお乗りになったイエス様の姿に、神の側からの働きかけを見なければなりません。

 

残念なことに、その時の群衆は、王となられる方のエルサレム入城を、華々しい出来事としてか理解できませんでした。「ダビデの子」として、イスラエルの再興をもたらす人として叫んでいました。彼らに、イエス様のことについて尋ねる人たちに対しては、ナザレから出た預言者だと答えていることも注目されます。彼らは、イエス様の行われる数々の力あるわざが、預言者エリヤの系列であると思っていたのでしょう。ただ、どこまで、預言者とメシヤが結びついていたのかはわかりません。群衆心理は、そのような「神学的」なことには関心がなかったのかもしれません。いずれにしても、群衆もまたイエス様の「重荷」となっていることなど、想像できなかったことでしょう。

 

因みに、子ロバを意味するヘブル語「アイル」には、同じ語根を持つ類語として、「目覚める」「盲目にする」「都」「興奮」などがあり、エルサレム入城に際し、その前には目の見えない人が癒され、いざ都に入られると反対に多くの人々の「目は見えなくなり」、「興奮」のるつぼになったことは興味深いことです。これも、神の隠れたご計画の一部なのかもしれません。今日でも、エイルサレムが問題になる時には、以上のようなことが常に起こりますが、私たちは、その中心に、子ろばにまたがれたイエス様がおられることを忘れてはなりません。このイエス様は、私たちの罪の重荷を十字架で担い、今日も真の平和を与えてくださるのです。

 

<考察>

1.ろばをすぐに貸した人の姿は、何を私たちに語っているでしょう?

2.ろばの子に乗られているイエス様を見ても、群衆の興奮が続いていたのは何故でしょう?

3.イエス様は「平和の君」と呼ばれていることについて黙想しましょう。