メッセージ要約 2022213

マタイ福音書2029節から34節 「目の見えない人の癒し」

 

20:29彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。 

20:30すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」 

20:31そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。 

20:32すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」 

20:33彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」 

20:34イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

 

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これまで多くの人を癒してこられたイエス様ですが、いよいよエルサレムに入ろうとするこの時に、ここでも癒しを行われました。目が見えない人の癒しは何度も行われており、憐みの行為であると同時に、メシヤの証しでもありました。ここで、あらためてこの出来事が語ることについて確認したいと思います。

 

最初のキーワードは「ダビデの子」です。これは、この福音書の冒頭にある系図の所からテーマとして掲げられているものです。「ダビデの子」は「メシヤ」と同義で使われていますから、ダビデの子が何を意味するかが、メシヤの性質を決めることになります。これまで学んだように、イスラエルの最高の王と目されるダビデの子孫が、外部からの侵略と圧制により苦しめられ、内部では律法に反する人々によって社会が腐敗しているイスラエルを再興し、神に選ばれた民の栄光を輝かせること、それが人々の希望でした。そのような期待が高まる中で大ぜいの群衆がイエス様について行ったのです。

 

その最中、目の見えない人が憐みを求めて叫んでいました。群衆は彼らをたしなめ、類似のケースでは弟子たちがたしなめていることもあります。目の見えない人の癒しは、メシヤのしるしであるはずですが、メシヤ待望の熱気にかき消されかかっていました。ここに、個人と集団の関係、それもしばしば相いれない関係という大切な問題が浮き上がってきます。集団としての救いも、個人の救いの願いも元来共通のものであるはずなのに、現実にはそうはなりません。例えばゼロコロナ政策をとる中国のように、全体の利益(ゼロコロナ)の為には、少数の不利益(強制的な措置)は許容されるという形になります。もちろん、理屈としては、そのような一部の不利益も、全体の利益が確保されれば、結局、その一部の人たちにも利益となって帰ってくるのだから、辛抱すべきだということになります。そのような考えは権威主義や全体主義体制の世界に広まっていて、現在その数は、民主主義体制の国をうわまっていると言われています。民主主義の日本でも、ブラック企業による搾取から官僚の政治家への忖度まで、より大きなグループのために個人が犠牲にされるケースはたくさんあります。

 

これを一言にまとめると、集団は個人に対して「こちらには大義があるのだから少数者は我慢しろ」ということになります。もちろん、多数決を原則とする民主主義でも同じことは起こるので、単に数で決めず、オープンな議論と少数意見の尊重が求められるわけです。これが一筋縄ではいかない難しい問題であるのは言うまでもないでしょう。この困難な道を妨げる最大のものは「集団の熱気」です。いわゆる集団ヒステリーですが、これが難しいのは、熱気の中身自体がそれほど間違っていない場合です。群衆がイエス様を待望のメシヤと見做し、熱気をもって彼を歓迎し、従っていたこと自体は責められるべきものではありません。イエス様を偽メシヤと断じ、迫害を加えていた宗教家たちと比べれば、まともな反応だったとも言えるでしょう。

 

しかし、そのような熱気・熱望が、単に人間から出たのか、それとも神からのものなのかが問われてきます。聖書に「熱心だけで知識が無いのは良くない」という言葉がありますが、これは、単に無知なのに熱心な、いわゆる熱狂的な迷信家のことを言っているだけではなく、「上からの知識」に基づかない熱心、つまり神からではない人間的な熱心は良くないというのです。ポイントは「神からの熱心」と「神への熱心」は同じではないということです。使徒パウロはもともと「神への熱心」にかけては、だれにも劣るところがありませんでした。しかしそれは、神からの知恵によらないものだったので、彼はキリストの弟子たちを迫害し、キリストに歯向かう存在となってしまったのです。彼に限らず、宗教家たちは、しばしばこの誤りに陥ってしまいます。

 

群衆の熱意が誤ったものであったことは、彼らがまもなくイエス様を見捨てたことから決定的になりますが、その前から、この段階で明らかでした。それは、この目の不自由な人を邪魔者扱いしたことです。彼らは、自分たちの持つメシヤのイメージを勝手にイエス様に投影し、そのイメージに熱狂していたに過ぎません。しかし、

イエス様は、その目の不自由な人を「かわいそうに思って」癒しました。群衆の発想では、癒しはメシヤのしるしと言っても、それは単なる身分証明書のようなもので、あくまでも目的は祖国解放の大義でした。しかし、イエス様はその本質が恵みとあわれみであり、大義の熱望が個人を抹殺することは許されませんでした。イエス様にあっては、個人は民族の中の単なる1ピースではなく、キリストのからだの貴重な器官なのです。民族は一人が死んでも維持されますが、からだにあっては、すべての器官がかけがえのないものです。

 

群衆の熱気はすぐに冷めてしましました。目を癒された人がその後どうなったかは分かりません。直後には、イエス様について行ったとありますが、単なる群衆の一部になってしまったのか、それとも集団の王というよりも、個人の救済者と出会ったことが、単なるご利益信仰で終わってしまうかどうかも分かりません。同様のことは私たちを含めて多くの人に当てはまります。ただし、今日の日本におけるクリスチャンの状況では、集団の熱気と言っても、それほど大きくない宗教団体の規模に過ぎず、民族、国家のレベルで語られることは多くありません。その昔、内村鑑三は「予は日本のため、日本はキリストのため、キリストは神のため」と謳いましたが、キリスト教会主流の戦争協力と敗戦による挫折以降、宗教団体を超える民族・国家のことは顧みられず、信仰が個人の心の問題のみに限られる傾向が強まりました。個人が基本であることは素晴らしいのですが、そのような時代には、不思議と容易に反動が起こり、宗教的な集団主義が起こり、さらにはカルト化していくことが多いので注意が必要です。当時最も民主的なワイマール共和国からナチスが出てきたようなことは、宗教でも起こりえるのです。

 

私たちも「大義」のために個人が犠牲になるかもしれない時に、イエス様はその個人をどう見ておられるかを考えなければなりません。その個人がイエス様に救いを求めているのなら、それを無視することが許されないのは言うまでもないことです。ただし、救いを求めているというよりも、単に少数意見を持っていることを超えて、罪を犯しているように見える場合、話は簡単ではありません。律法でも人の熱心でもなく、聖霊による愛によって、忍耐をもって対処していかなければならないのです。

 

<考察>

1.個人と集団の関係について、身近なケースについて考えてみましょう。

2.イエス様は何故「何をしてほしいのか」と尋ねられたのでしょうか?

3.霊的な意味でも「見えるようになりたい」と求めましょう。