メッセージ要約 202226

マタイ福音書2017節から28節 「神のかたちとしてのしもべ」

 

20:17さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。 

20:18「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。 20:19そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

20:20そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。 20:21イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」 

20:22けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。 20:23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」 

20:24このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。 

20:25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 20:26あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 20:27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 

20:28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

*************************************

 

イエス様の話が理解できない弟子たちに向かって、改めて十字架の予告をされます。そのような重大な話がなされているにもかかわらず、彼らとその家族の関心は自分たちの出世のことです。それは、直訴した二人だけではなく、彼らに腹を立てた他の弟子たちも同じことだったでしょう。この「出世欲」「権力欲」の問題は、これまでも何度も触れました。そしてそれは、単に批判するだけで済むことではなく、「承認欲求」とも関係する微妙な事柄であることも学びました。大切なポイントなので振り返ります。

 

人は承認欲求が満たされないと健全な発育が妨げられると言われています。通常は親からある程度認められて育ちますが、虐待を受けていると自己肯定感を持てないまま大きくなり、様々な問題が生じます。確かに、ぼろ雑巾のように扱われてしまっては、人としての尊厳を感じることが難しいでしょう。ただし、人の尊厳の根拠を、他人から認められるという点にだけ置くのは限界があります。完全な承認を受けることはそもそも不可能ですが、あくまで欲求の道を追求すれば、それは支配欲、権力欲という形をとることになります。聖書の語る人の尊厳は、人間同士の相互承認から始まるのではなく、人は神のかたちに似せて創造されたというところにあります。ですから、自分自身や他者の尊厳を認めるというのは、それぞれの神のかたち(極めて不完全な仕方で現れてはいるとはいえ)を認めるということです。神を愛すことと隣人を愛すことが一体なのもそこに根拠があるのです。出世しなければ自分の尊厳が感じられないのは、そもそも神のかたち抜きに、社会の一部分としての自分しか知らないからです。

 

弟子たちがイエス様のおそばに置かれたのは、第一にイエス様にある神のかたちを見るためであり、第二に、イエス様とつながり、聖霊によって、神のかたちに似せて造られた神の子どもとしての姿に変貌させていただくためです。しかし、そのためには、イエス様の十字架の受難という大きな出来事が必要でしたが、それは、人間的な承認欲求や権力欲を否定するものだったために、彼らには理解することも受け入れることもできませんでした。

 

「何もわかっていない」弟子たちに対して、イエス様はご自身が飲もうとしている杯が飲めるかと尋ねました。彼らはその杯が何なのかが分からないまま「できます」と答えます。この杯が何なのかについては議論がありますが、イエス様も弟子たちも共に飲むというのですから、十字架上の贖罪のことではなく、これから受ける迫害による苦しみと考えられるでしょう。この苦しみは、弟子たちにとっては、世に対する権力欲も世からの承認欲求も否定される苦しみなのです。弟子たちが受けるこの「苦しみ」は、イエス様と共に生きている証しでもありますから、それは災難ではなく栄誉です。そして、その栄誉はこの世から受ける栄誉とは違って、労働、努力、才能に対する対価として受けるものではありません。来るべき神の国でどのような立場に置かれるかということとは関係がないということをはっきりさせるために、それはイエス様が決めることではないと言われました。ここで、弟子たちは、報いの確証なしで、イエス様について行くつもりがあるかが問われます。

 

イエス様について行くというのは、単に人としての師匠から教えを乞うということではなく、「神のかたち」をイエス様に見るということです。神のかたちは具体的には、「しもべ」という姿で現れます。日本では、才能がありつつ大口もたたく「有言実行」の人よりも、腰の低い謙虚な「無言実行」の達人の方が尊敬される傾向がありますが、イエス様の「しもべ」は、その道をさらに進めて、究極の「無言実行」がなされました。「無言」というのは、理不尽な罪をなすりつけられても黙して抵抗しなかった「ほふられる羊」の姿であり、「実行」とは、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えた」ということです。単に自慢しないという無言を超えて、ただ神の子としてのアイデンティティのみで充足し、人から評価されないどころか、圧倒的なマイナスの評価を受けても超越しているが故の沈黙でした。これは、ただ人から言われるがままになってしまう弱さと混同すべきではありません。また、虐待を正当化するものでもありません。(クリスチャンはいかなる不正も黙って忍ぶべきだという話でもありません)。この「無言」には明確な目的があったのです。それが「実行」の部分です。

 

その実行とは「贖いの代価としていのちを与える」ことです。「贖い」とは通常では買い取るという意味ですが、機械的ではなく、象徴的に理解する必要があります。機械的というのは、神がサタンに代価を払って人類を買い取ったという解釈のこと。それでは、キリストのいのちがサタンの支配下にあることになってしまいます。ですから、誰に支払いをしたかという点よりも、神がキリストのいのちという、最も尊いものを以て人類をご自身のものとしてくださったという一点に焦点を当てることが必要です。この神のご計画に従ったというのが、イエス様の「しもべ」としての内容です。キリストの「支配」は、いのちをささげる「愛」であることが肝心です。

 

もちろん、人の命には「贖いの代価」の価値はなく、ただ贖っていただくだけの存在です。ですから、私たちが「しもべ」であるというのは、まずは仕える者としての心構えの話ですが、その原点として「神のかたち」に似せて造られたものとしての自覚から出発し、権力欲や際限のない承認欲求から解放され、神が備えてくださった道を歩んでゆくことです。そして、それはキリスト同様、「愛」がその原点であることは言うまでもありません。

 

<考察>

1.「人間の尊厳」や「人格の尊重」が踏みにじられていると感じるのは、どのような時でしょうか?

2.「人の上に立つ」以外に、どのような形で他人から認められようとするでしょうか?

3.自分が贖われた(買い取られた)ということについて、どう思いますか?