メッセージ要約 2022130

マタイ福音書201節から16節 「逆転と公平」

 

20:1天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

20:2彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

20:3それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。 

20:4そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』 

20:5彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。 

20:6また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』 

20:7彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』 

20:8こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』 

20:9そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。 

20:10最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。 

20:11そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、 

20:12言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』 

20:13しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。 

20:14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。 

20:15自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

20:16このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 

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これは、「気前のいい主人」が、日雇いの人に対して、労働時間に関係なく同一の賃金を払ったという、例によって、日常の話のようでありながら非日常的である、イエス様特有の「たとえ話」です。これはもちろん、「同一労働同一賃金」に反対して、年功序列の枠で給与を保証する古い会社の体質や、働いても働かなくても同じ生活が保障される共産主義の社会などを正当化するための話ではありません。

 

ポイントは三つあります。一つ目は、すべてぶどう園に呼ばれた人がもらえたものが等しかったということです。これは、労働の対価としては不思議ですから、この一デナリは何の象徴なのかを理解することが大切です。これはもちろん、この箇所だけでは分かりませんが、聖書全体から見れば、それが、福音、信仰、聖霊のように、受ける人の状況と関係なく、等しく与えらえるものであることが推測できます。ただし、等しく与えられるとしても、受け取りかたは様々です。重く受け止める人もいれば軽い人もいるでしょう。ですから、ポイントは、福音そのもの、神の信仰、そして聖霊それ自体は、ひとつであって、変わることがないということです。その上で、その現れ方は、一人ひとり異なっていて、全体としてはキリストのからだを形成しているという話に繋がります。

 

二つ目は、この主人の性格・態度です。それは「気前がいい」という言葉で表現されているものです。私たちは、すでにマタイ福音書で、善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる天の父という形で、恵みと憐みに富んだ神(赦しの神)のことを学んでいます。しかし、このような神の姿は、赦される人にとってはありがたいものですが、他人が赦されるのを見るだけの人にとっては、納得のいかないものになりがちです。同様のことは、ルカ福音書の「放蕩息子」にも見られます。そこでは、放蕩息子が帰って来た時に、父は彼を無条件に受け入れただけでなく盛大にお祝いしました。それに対して、ずっと真面目に過ごしてきた兄が文句を言っています。マタイでもルカでも、この文句に対する答えは、主人や父は、あわれみを土台とした自身の決定に従って行動しているということ。また、しもべや兄は、それぞれ自分が受けるべきものを受けているので、そこに不正はないというものです。

 

このことに対してなおも文句をつけるとすれば、それは、気前のいい神が気に入らないか、あるいは、「受けたもの」を、文字通り「報酬」と考えているからということになります。もちろん、気前のいい神そのものに文句がある人は少ないでしょうから、自分より他人に対して気前が良く見える、つまり不公平だということが不満になるのでしょう。ですから、結局それも、受けたものを報酬と思っていることから来ていることになります。自分が受けたものも恵みだということを忘れているからです。つまり、主人とを関係を、あくまで恵みではなく、「律法」を基準としているわけです。(律法では、公平性、正当な評価などが大事です。それは社会の秩序を守るためです)。

前回学んだように、自分には本来何も無く、自分は神の働きの「通路」であるという原点に立つならば、神から「受ける」ものは報酬ではなく、「通路」として用いられるという特権のことであることが分かります。しかも、その「通路」は単なる使い捨ての道具ではなく、頭であるキリストのからだの一部として、変容されていくものなのです。ですから、結局今回の話も、「福音」そのものを劇的に表現していることになります。この主人は、わざと5時からの雇い人に先に支払い、朝から働いた人に、わざわざこのやりとりを見せたのは、恵みの原則を示すためであり、いわば、すべての人に福音を提示するためであったと言えるでしょう。

 

三つ目のポイントは「あとの者が先になり、先の者があとになる」ということばです。このことばは、すでに金持ちの青年の話の後に語られている事ですから、とても重要なのがわかります。これは大切な警告です。すべての人は、等しく「1デナリ」をいただけるとしても、その順序は人の期待するものとは異なるということです。これは、いわゆる「罪人」が先に救われ、宗教家が後になるということもあれば、後であるはずの異邦人が先に福音を受け入れ、先であるはずのユダヤ人が後になるということもあります。ただ、この点について使徒パウロは、そのような「逆転」は、人間の都合で神の計画がひっくり返ったのではなく、その逆転も含めて神のご計画であると言っています。ユダヤ人と異邦人の順序の逆転は、究極的には、そのどちらもが救われるためのプロセスであり、これは神の奥義だというのです。ですから私たちは、逆転の一部だけを見て拙速な判断をしてはなりません。神の大きなご計画全体を見渡すことはできませんが、それだからこそ、神の恵みに寄りたのむことが大切です。そして、その逆転が何であれ、そこで神の恵みに帰れるかどうかが試されています。たとえ「先のもの」が後になったとしても、その恵みは変わる事がないのです。

 

<考察>

1.この話を読んだ時の第一印象は何でしたか?

2.神の恵みの原則と、この世の正当な経済活動とは、どう関係するでしょうか?

3.「先のものと後のものの逆転」を経験したことはありますか?