メッセージ要約 2022年1月23日
マタイ福音書19章27節から30節 「弟子の受けるものについて」
19:27そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
19:28そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
19:29また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
19:30ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。
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全財産を施し、いわば出家してついて来なさいと言われた金持ちが去っていったことに対して、弟子たちは、自分たちこそ出家して来ているのだから、何か報いがあるはずだと考え、イエス様に、その報いは何かと尋ねます。そもそも、出家の動機が報いを求めていることの是非は後で考えるとして、まずは、イエス様の答え自体を見てみましょう。
まず「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時」とあるのは、いわゆる「黙示思想」の枠組みで語られた「神の国が完全な姿で現れた時」(いわゆる終末後の世界)のことです。黙示思想では、この「終末後の時」も、今の時と似た図式で語りますから、いかにもそれは、今と同じような目に見える形での王国で、中央に王様が鎮座し、周りに忠臣たちが侍っていて政治を行っている風景に見えます。そのような場面で、イエス様に従ってきた弟子たちも、メシヤと共に権力の座について十二部族を治めるのが報いだというように読めます。十二部族とあることから、ここでの弟子は十二使徒であると思われます。しかし、そうなると、そもそも十二使徒とはだれなのかということが問題となります。これを機械的に当時の弟子たちの中の特別な十二人と解釈すると、後に困難な状況が出てきます。十二使徒のひとりイスカリオテのユダが脱落したあと、後継者をくじによってマッテヤに決めました。その時点では確かに十二人そろっている事が重要視されていたのでしょう。しかし、彼のその後の動静はまったく記録されていません。宣教の実績としては使徒パウロの方が圧倒的に重要ですが、彼が十二使徒に加えられたこともありません。ですから、新天地では十二の大臣職のようなものがあって、そこに十二人が選抜されるというようなものと考えることは困難です。むしろ十二使徒は十二部族、すなわち全イスラエルの霊的側面を代表していると考えたほうがよいでしょう。イエスの弟子だということで今は迫害されのけ者にされていても、最後には彼らの宣べ伝えている福音のことばこそ神のことばであり、神の究極的な判断基準となるのですから、聖書の他の個所にもあるように、イエス様のことば、すなわち福音が新天地の土台であり、使徒とはその福音をもたらすものという意味で、いわば新しくされた全イスラエルをさばく立場にあるのです。
もちろん福音を伝える人は十二使徒に限りません。イエス様の名のために、つまり福音のために家、兄弟他あらゆるものを捨てた者は、その幾倍と永遠のいのちを受けるとあります。これも、前回の金持ちの話同様、単純に読めば出家すれば大きな報いがあるという話になりそうです。しかし、出家して家族や家、田畑を捨てたらその幾倍かが戻ってくるというのは、そもそも物理的に無理な話です。もちろん、これを霊的に解釈し、家族を霊的家族、家を教会、田畑をキリスト教文化・経済と読み替え、それらは自分の小さな家族や財産に比較したらはるかに大きいと考える人もいます。それは、一面の事実ではありますが、気を付けなければ、反社会的なカルト思考に陥る危険があります。特に、出家や寄付を強要するような強権的な指導者のもとで集団生活を行う団体は、恐ろしい悲劇を起こす可能性があることは、広く知られている時事です。蛇足ですが、聖書のテキストが言う「財産を捨てる」とは貧しい人に施すことであって、自分が貴族する宗教団体に寄付することではありません。
聖書を読む時はいつでもそうであるように、ここでも、イエス様のことばを一部だけ取り上げることは危険です。この箇所のように、一見家族を顧みない信仰を説いていることばがあると同時に、聖書には例えば「コルバン」の警告(神へのささげものとしたという理由で、本来親のために使うべき資産を使わないこと)もあり、そこでイエス様は、宗教的理由を盾にして、親を敬うべしという十戒を無にしている偽善を指摘しておられます。
使徒パウロも第1テモテ5章8節で、自分の家族を顧みない人は不信者よりも悪いと書いています。その他、家族を中心とした創造の秩序を大切にするのは、あまりにも当然のことです。その前提の上で、その秩序を保全する以上の事柄があるというのがポイントです。「わたしの名のゆえに」ということばがそれです。ここに「名」の問題があります。世界には様々な「名」がありますが、イエスの名は、例え家族のように最も大切な者の名であっても、それよりも上にある(重要)ということです。
イエスという名が全ての名に勝るというのは、しばしば賛美の中にでてきますが、どういう意味でしょうか。それは、イエスの名は、すべてその名を呼び求める人々を救う名だということです。人の親や子の名にそのような力はありません。宗教団体の名にもありません。自分の親がイエス様を救うのではなく、イエス様が自分の親を救うのです。キリスト教ではなくキリストが救うのです。この、あまりにも当たり前の事実を述べています。そもそも「イエス」というのは「神は救い」という意味です。「救い」ということに限っては、人間の名前はもちろん、家も田畑も財産も何も役にたたないのです。「イエスは主」というのはそういうことであり、イエス様が人々を救えば、親も子もその他の人も、単に生まれつきの状態を超えて、豊かな実りのある人へと変えられます。そして、「永遠のいのち」についても、前回の金持ちのケース同様、自分のいのちの質そのものが、単に地上に属するものから天上に属するものに転換されるのです。それは、「もの」として受け取る何かなのではなく、自分自身の状態の変化です。そして、それは決して神との取引で手に入れるものではなく、ただ神の恵みによるのです。
しかし、「先のものが後になる」と警告が続いているように、この「恵み」はしばしばこの世の在り方とは異なる形であらわれます。この箇所での弟子たちも、「出家」の覚悟と実績によって永遠のいのちを得ることができると思ったでしょうが、後に酷く躓くことになります。彼らが、真に「永遠のいのち」を体験するのは、挫折の後に下ってこられた聖霊の出来事まで待たなければなりません。
<考察>
1.出家と在家それぞれの長所・短所はなんでしょうか?
2.「キリスト教は家族を大切にしない」という世間の評価についてどう思いますか?
3.「名」の大切さは、どのような時に感じますか?