メッセージ要約 2022116

マタイ福音書1916節から26節 「神だけができること」

 

19:16すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」 

19:17イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」 

19:18彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。 19:19父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」 

19:20この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」 

19:21イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 

19:22ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

19:23それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。 19:24まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 

19:25弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」 

19:26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」 

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「永遠のいのち」についてある金持ちが質問します。「永遠のいのちを得る」というと、私たちは「死んだら天国に行く」というイメージを持つかもしれませんが、当時のユダヤでは、終末に神がもたらす新しいイスラエルの住民になるという意味合いだったと思われます。その上で、パリサイ派は、すでに死んでいた者でも復活して(生き返って)入国するという考えでした。(復活を信じないサドカイ派等では、当然、終末時点で生きている者だけが対象でした)。いわゆる黙示思想というものです。現代のSFでは、例えば、小惑星が地球に衝突するため、選ばれた人たちが火星に移住し、新しい世界を建設するという類の話がありますが、黙示思想では、場所こそ地球ですが、選ばれた人が別天地に入るという構図自体は似ています。ですから、この金持ちの質問は、何をしたらこの「選ばれた人」の一員となれるかというものです。

 

この質問に対して、イエス様は、まず十戒を守れという、ユダヤ人として当然の答えをされます。ただし、「隣人を愛せ」はレビ記の中の言葉ですが、しばしば律法の要約として引用されますから、要は律法のエッセンスを守れということになるでしょう。これに対して、この金持ちは平然と、それは皆守っていると答えます。大した自信ですが、イエス様は「完全になりたいのなら」と問いかけます。「完全」はマタイが多用することばで、「天の父が完全なように完全であれ」という表現が有名です。その「完全」は以前学んだように、「赦し」「恩恵」を意味しています。ですから、「恩恵」において神の基準に合致したいのなら、全財産を貧者に施せというのがこの箇所の意味するところです。

 

このことから分かるのは、神の「完全」すなわち、恵みと赦しは、自らの全てを投げ出すものだということです。すなわち、神がひとり子を与え、ひとり子が自らのいのちを与えたという「福音」が神の「完全」なのです。

この福音抜きで、「いかに永遠のいのちを得るのか」を問うこと自体が無意味です。もちろん、この時点で、金持ちは福音を知らないのですから、的外れなやり取りになったのはやむを得ません。彼は、イエス様のことばを単純に「出家」の勧めと受け取り、財産放棄の決断ができませんでした。もちろん、福音を抜きにして単に出家したからといって神の国に入るわけではありません。ですから、ここで問題となっているのは、そもそも「永遠のいのち」が何を意味しているかです。

 

福音書(特にマタイやマルコ)やパウロの初期の手紙にも黙示思想的な要素があります。そこだけを切り取ると、この金持ちと同じような発想になる可能性があります。しかし、福音を基準とするなら世界は変わります。すなわち、「いのち」の質が問題となってくるのです。「神の国に入る」というのは場所の問題ですが、「いのち」は自分自身の存在の質が問われています。どこに居るかにかかわらず、自分が福音に生かされ、生きているのかが大切であって、もしそうなら、そこに「永遠のいのち」すなわち「神のいのち」が働いているのです。終末を超えた新天地は、この「いのち」が十全に支配する世界のことであり、その完成は未来ですが、すでに今ここで始まっているというのがイエス様のメッセージであり、聖霊によって訪れている現実です。

 

金持ちが立ち去った時にイエス様は「金持ちが天の御国に入るのは非常に難しい」(実質的には不可能)だと言われました。これも、金持ちでなければ容易に御国に入れるというように解すべきではありません。当時の人々は、裕福であることは神の祝福を受けている証拠と考えていたので、そのような祝福された人でさえ御国に入れないのだとしたら、だれが入れるのかという反応をしたのです。イエス様の答えはシンプルでありながら驚愕すべきものです。「それは、人にはできない」というのが答えです。要するに、人の力では救われることは不可能だというのです。これが福音の土台です。人は人を救えないのです。もちろん、世の中には、人によって可能となる「救い」はいろいろとあるでしょう。イエス様は、そのような「救い」とは別の種類の救い、つまり、神によってのみ可能な種類の救いについて語っておられます。

 

私たちは、そのような「救い」をよく知る必要があります。それは、上記で確認したように、「完全」なものにされるということです。すなわち、赦しと恩恵に生きるものとされるのが「救い」なのです。そして、それは人にはできず、ただ神だけができるのです。これは、人は他人を赦すことができないという話ではなく、赦しや恵みは、そもそも神から出ていることであり(本人がそう意識しているかどうかは別として)、人はその通路に過ぎないということです。ですから、ポイントは、人が自分のことを単なる「通路」に過ぎず、自分自身の内には、赦しも恩恵もないということを認めるかどうかということです。つまり、自分は本質的には「無一物」なのです。一般的には、金持ちは貧者よりも、自分が無一物であることを認めるのが難しいということはあるかもしれません。しかし、それは程度の問題であって、人はだれでも無一物で生まれ、無一物で死んでいくのです。結局、大切なのは、何を所有するかではなく、自分の「いのち」の質です。永遠のいのちとは、人ではなく神が人を通して働いているいのちのことです。そして、その「いのち」は神の恩恵であり、まさにイエス様がもたらすものです。「イエス」とは「神は救い」という意味の名前であり、今や、だれでもイエスの名を呼ぶ者は救われるのです。

 

<考察>

1.「永遠のいのち」を得たいと思う人は多いでしょうか?

2.「黙示思想」についてどう思いますか?

3.自分が「無一物」だということは、どうして分かりますか?