メッセージ要約 202219

マタイ福音書193節から9節 「結婚と離婚について」

 

19:3パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」 

19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 

19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 

19:6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」 

19:7彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」 

19:8イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。 

19:9まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」 

 

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パリサイ人は、なんとしてもイエス様を罪に定めようとして、執拗にせまります。今回は離婚に関する見解をただす形で、イエス様の言質をとろうというものです。背景として、ユダヤ律法の解釈の問題があります。律法では、妻を離別する時には離婚状を渡さなければならないとなっています。これは、離婚した女性が再婚することが可能になるように、女性の立場を保護するためという側面があります。(現代でもDVで逃げ出したものの、離婚がなかなか出来ずに苦しんでいる人がいる状況があります)。しかし、どのような場合に離婚が可能になるのかについて、モーセ律法が具体的に語っているわけではないので、律法解釈は割れていました。条件が緩い立場であれば、とにかく妻のことが気に入らなければ何でもよい、例えば料理がまずい等という理由でも離別できると言われました。逆に厳しい立場では、不貞(不倫)のような重大な事がなければ離婚できないと考えられていました。マタイ福音書でのイエス様の答えを見ると、形の上では、後者の厳しい立場であることが分かります。

 

しかし、イエス様のことば(福音)は、単なる律法解釈の問題ではないことに注意しなければなりません。律法は社会の秩序維持のために必要ですが、それだけでは神の国を実現することはできません。むしろ律法が指し示しているキリストに目を向け、神の国の視点から物事を見る必要があります。イエス様の強調点は、そもそも結婚とは何なのかということです。結婚の意味が曖昧であれば、離婚についての議論も不可能です。まず「結婚」が持つ、様々な意味を確認する必要があります。今日、その意味がますます多様化しているからなおさらです。

 

まず一番単純なのは、法律上の結婚(法律婚)です。これは、結婚生活の内容よりも社会制度維持のための形式の問題で、離婚状云々というのもこれに含まれます。法律婚の定義は明確ですが、そもそもだれがどのように法律を定めたのかという問題は残ります。法律が、あまりに社会の実態と離れると、法律自体を変えなければなりません。もちろんそれは簡単ではありません。

一方、事実婚という概念があります。法律上では結婚していなくても、「実際には結婚している」というものです。この場合、何をもって「実際には結婚している」と見做すのかが問題となります。明確な定義はありませんが、長期的、安定的に同居生活をし(つまり、一時的な同棲ではなく)、性的な関係がある(つまり、単なる同居ではない)状態であれば、夫婦と同様だと見なされるでしょう。ですから、逆に言えば、このような性的な関係を含む共同生活が「結婚」の実質であり、法律婚は、その状態を公認し保護するものだと言えます。

 

これは聖書でも同様です。アダムがエバを「知った」というのは(聖書の他のケースでも)、性的な結合の婉曲表現であり、これが結婚の土台です。共同生活は2次的なことであり、性的結合がないならば単なる同居生活ということです。このようなことを今さら言わなければならないのは、周知のとおり、現代社会(少なくとも日本も含めた「西欧文明社会」)では、結婚と性的関係は別のものと考えられているからです。結婚する前、あるいは結婚外の性的関係がどうなのかということが議論されること自体が、両者が別物であると言う前提があることを示しています。しかし、そもそも結婚とは、法律上の状態は別として、性的関係を前提とした共同生活という原点から見るなら、いわゆる「結婚前」に性的関係と持つ同棲をするというのは、すでに結婚を始めたことと同じことになります。それが安定的に持続するかどうかは、事後的にしかわかりません。持続するなら「事実婚」と見做されますし、しないなら、「結婚」に失敗したことになります。いわゆる不倫ならば、実質的に重婚状態ということです。(片方は法律婚で、もう一方は事実婚ということです)。一夫多妻制度のある社会でない限り、そのような状態で安定的な共同生活がなされることはないでしょう。

マルコ福音書では、離婚が無条件に禁止されているように見えるのに対し、マタイ福音書では不貞の場合のみ例外的に離別できるとなっているのも、規則の問題というよりも、不貞とは実質的に重婚状態になっているのであり、その状態をどうするべきなのかという時に、片方の「結婚関係」を解消できるというように考えるべきでしょう。

 

聖書では、この実際的な土台の上に、さらに霊的な次元があります。それが、「神は人を男と女に造られた」ということです。この「人」が単数形であることがポイントです。この「人」は神のかたちに似せて造られたとあります。「神のかたち」が何を意味するのかについては古来様々な考えが提唱されてきましたが、いずれにせよ、「男と女」として造られたひとりの人が、その形を表していることは確かです。そして、その「人」について、続く章でアダムとエバの結婚の話へと進むのですから、結婚が何らかの「神のかたち」に関係していることが分かります。もちろんそれは、ある種の宗教が主張する「性的結合による神秘体験」のようなものを指しているのではありません。(聖書にはその種の話はありません)。そうではなく、後に、神がイスラエルを「花嫁」と呼ぶことの予兆となっているのです。ただし、その妻は不貞の妻でありながら、なお彼女を愛し続けるという話につながっていきます。このことは、今日、教会がキリストの花嫁と呼ばれていることにつながります。使徒パウロが、結婚はキリストと教会の関係という奥義を表していると書いてある通りです。

 

ここに、結婚が地上の単純な事柄を超えて、霊的かつ人格的な意義を持ってきます。キリストの教会に対する愛と、その愛への応答としての信仰の従順という「福音」的な関係を、結婚が象徴するというのが神のご計画だということです。これはもちろん、人間的な通常の意味での結婚を超えています。(これを地上の意味としてとらえ、例えば妻は夫に絶対的に服従すべしというような律法として解釈すべきではありません)。これは、神の恵みが一方的に支配する場において、人ではなく神ご自身が夫婦を通して実現していかれる事柄です。このような「福音」としての結婚が、イエス様の語っておられるものであり、それは人間ではなく「神が結び合わせたもの」に他なりません。そのような結びつきを壊すことは、神の恵みを無にすることですから、「キリストにあって」は、本来あり得ないことなのです。

 

<考察>

1.どのような時に離婚が許されると思いますか?

2.クリスチャンの結婚の特徴は何でしょうか?

3.「神が結び合わせた」ことは、どうして分かりますか?