メッセージ要約 202212

マタイ福音書213節から23節 「内在のキリスト」

 

2:13彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

 2:14そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、

 2:15ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。

2:16その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。

2:17そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。

2:18「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」

2:19ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。 

2:20「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」 

2:21そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。 

 

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「東方の博士」の来訪がきっかけとなり、ヘロデの迫害から逃れるために、イエス様の家族が一旦エジプトに逃れたとのことです。そして、エジプトから再びユダヤの地に戻ってきたことについて、神が「わたしの子をエジプトから呼び出した」との預言が引用されています。また、ヘロデによる幼児虐殺事件に関しては、「ラケルの嘆き」というエレミヤの預言の言葉も記されています。その他、イエス様の歩みの多くの場面について、「預言」の成就という形で説明されています。個々の場面の詳細は置いておくとして、全体として分かるのは、イエス様の人生は、イスラエルの歴史を凝縮して再現しているということです。

 

このことは、「王」という言葉の意味に関係しています。古来「王」とは、統治者であり、しばしば絶対君主でもありました。彼らは、人民を「外から」支配する存在です。今日、支配の仕方は多様化し、武力だけでなく多数決や法律、情報コントロールから洗脳にいたるまで、様々な「力」の行使がその基盤となっています。一方で、現代では象徴的な君主制というものもあり、日本の皇室も一つの例です。天皇は権力の行使はできず、国民および国民の統合の象徴とされています。この「象徴」が何を意味するのかについては様々な解釈があり、曖昧なところが興味深いですが、少なくとも言えるのは、人間である天皇あるいは皇室が、日本の歴史を体現する存在であるとみなされていること、そしてさらに、平成天皇以後、日本人が抱く、ひとつの理想的な人格を表すものとされていることでしょう。もちろん、生身の人間が、民族の歴史や理想の人物を文字通り体現することなど不可能ですから、これは、あくまでも象徴、つまり、目には見えない「歴史」「人格」を指し示すものだということです。

 

イエス様のエジプトへの逃避行は、アブラハムからモーセに至る、エジプトへの避難から出エジプトまでの歴史を反映しています。また、エレミヤの預言は、バビロン捕囚の苦難に関するものです。もちろん、イエス様が歴史をそのまま再現しているのではなく、イエス様がユダヤの苦難の歩みを象徴しているということです。逆の方向から見れば、イスラエルの苦難は、イエス様を指し示している象徴だということになります。つまり、イエス様とイスラエルは互いに象徴的な関係にあるのです。言い換えると、イスラエルの苦難の歴史の中にキリストが内在し、イスラエルもキリストに云わば包まれているということです。このことを、「相互内在」の関係と言うことができます。マタイ福音書で、キリストの誕生を「インマヌエル」(われらと共におられる神)と表現していますが、これは、単に「高いところにおられる神」が、天からイスラエルを見下ろし守ってくださるということではありません。(もちろん、イスラエルはそれを期待し、一時的には経験もしましたが、結局崩れていきました)。神の御子が人となられたことによって、キリストにおいて、神と人との「相互内在」の道が開かれたことを意味します。

 

「相互内在」と言っても、キリストとイスラエルがイコールだということではありません。罪のないキリストと罪まみれのイスラエルがイコールになるのは不可能です。むしろ実質的には正反対の存在だと言えます。それが、キリストの十字架の意味するところです。イエス様を十字架につけたのは個人的なことではなく、キリストとイスラエルが絶対に相いれないことを表しています。言い換えると、聖なる神と罪人イスラエルの真ん中に十字架があり、その十字架によって両者は結びついているのです。ポイントは、イエス様がただ神とイスラエルの仲介者なのではなく、「十字架のキリスト」が仲介者だということです。

 

似たもの同士が結びついていのではなく、絶対に相いれないもの同士がお互いの内にあるというのが、ここでいうところの聖書的「相互内在」です。この「相互内在」が、今や神とイスラエルとの関係を超えて、全世界の人々に向けて提供されているというのが「福音」です。イエス様とイスラエルとの関係は、その「ひな型」であり、

今日の私たちにも当てはまるのです。神は私たちを「高いところから」守っていてくださるというよりも、罪のないキリストと罪人である私たちが十字架によって結びつき、相互内在の関係になることによって「インマヌエル」(我らと共におられる神)が実現します。この「相互内在」が、マタイ福音書のクリスマスメッセージなのです。

 

キリストが私たちの「うちに」おられるというのは、神は私たちの「内側から」働かれるということです。内側からというのは、私たちが何かに「憑りつかれる」というのではなく、私たちを存在させている根底から働くと言う意味です。私たちは、自分の存在の根底を自分自身の中に持っているのではなく、また、単に社会や天然自然に根底を置いているのでもなく、それは、そもそも神にあります。そこからずれているのが罪であり、キリストの十字架によって、神と、「ずれている」私たちが結びつき、神の内在が回復されるのです。「もはや、私ではなくキリストが私のうちに生きておられるのです」。

 

また、私たちが「キリストの内に」いるというのは、私たちの罪深い歴史を、キリストがご自身の歴史の一部として引き受けてくださるということです。これが、十字架で私たちの罪を背負われたという意味です。その結果、私たちの歴史(ライフストーリー)は、もはや自分の歴史ではなく、キリストのものとなりました。もちろん、人の歴史と神の歴史がそのまま一つになるのではなく、相いれない二つの歴史が十字架によって結びついているのです。「だれでも、キリストの内にあるならば、その人は新しく造られたものです」。

 

<考察>

1.新年と「国民の象徴」に関して、何か感じることや思いはありますか?

2.マタイ福音書の記事と、一般的に言われる「預言の成就」との違いは何でしょうか?

3.「相互内在」を自分なりの言葉で表現してみましょう。