メッセージ要約 20211226

マタイ福音書21節から11節 「東方の博士が語ること」

 

2:1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 

2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 

2:3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。 

2:4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

2:5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。
わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。 

2:8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」 

2:9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 

2:10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 

2:11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 

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マタイによるキリスト誕生後についてのメッセージです。まず語られるのは、いわゆる「東方の博士たちの来訪」の出来事です。これは、紙芝居などでは、ルカ福音書の羊飼いたちの来訪と一緒に描写されることが多いですが、全く別の出来事と考えて良いでしょう。マタイによれば、三人が訪れたのは、家畜小屋で寝ている新生児ではなく家におられた子どものイエス様となっていますから、誕生から時間がたってからの事と思われます。ヘロデがキリストを殺そうと、二歳までの男児の殺害を命じたと書かれていることから、イエス様が一、二歳の頃であっただろうと推測されます。時期はともかく、「東方の博士」は遠方からの旅をしてきたことが暗示されています。

 

「東方の博士」の「博士」と訳されている言葉(マギ)は、占星術師を意味しています。元来、東方ペルシャ宗教の祭司のことで、占星術だけでなく、夢判断や薬学などの秘儀に通じていました。現代でも、民間に星座占いがありますが、他方、科学では月などの天体の重力が地上の自然現象や人間の体調に及ぼす影響も調べられています。迷信と科学の境界が微妙な分野ですが、自然科学が未発達だった古代では、占星術は広く受け入れられていたことでしょう。注目するのは、ユダヤ人は律法で占いが厳しく禁じられていたのにもかかわらず、ユダヤ人向けに書かれたマタイ福音書で、今回の個所が自然な形で書かれていることです。一般にイエス様を受け入れないユダヤ人ならば、異邦人の、しかも占い師の証言など相手にしないでしょうが、不思議なことに、「博士」が訪れた時の住人や王が、「博士」の言葉をまともに受け取っており、マタイ福音書が書かれた時代の信徒たちも、記事を受け入れていました。これは何を意味しているのでしょうか。

 

第一にそれは、福音が世界に広がることの予兆です。このことは、すでに「系図」に異邦人が含まれていたことで示されていました。ユダヤ人向けの福音書でありながら、最後は、いわゆる「大宣教命令」と呼ばれている、あらゆる民に対して福音を伝えよという言葉で締めくくられている通りです。世界中に向けての話なら、初めからユダヤ人向けなどではなく、万人向けに書けばよいではないかと思うかもしれませんが、事はそう簡単ではありません。そもそも、民族が関わる問題で、この世に「万人向け」などというものがあるのでしょうか。「人類皆兄弟」という美しい標語は、厳しい現実の前には全く無意味に思えます。民族の対立は人間の本性なのでしょうか。このことについて、聖書は使徒の働きの中で、「神はひとりの人からすべての人々を造り〜それぞれに、定められた時代と境界を与えられた。それは、神を求めさせるためである」と言っています。単純に言えば、個人に個性と限界があるように、民族・国家にも個性と限界があり、それを通して、人は神を求めるようになるのが、そもそものあり方だということです。今よく言われる「多様性」が前提としてあるのですから、民族の個性を無視した、平板な「万民」というものはあり得ません。

 

ですから、聖書という、そもそもユダヤ人の書物は、徹底的にユダヤ的であるのが当然です。しかし、その聖書が証言するキリストは万民の主であり、福音も万民に備えられているものです。このことは、ユダヤ人ではない全ての民族についても当てはまることです。日本人も中国人も、神が定めた個性と限界があり、それを通して神を求めるべきです。その求めに対して、神は「福音」をもって答えておられます。福音によって、民族は個性のない平板な「万民」になるのではありません。福音によってユダヤ人が真のユダヤ人となるように、他の民族(例えば日本人)も、神のデザインされた真の日本人となるのです。では、福音の前後で何が違うのでしょうか。福音の前は、個性を追求すれば対立が深まり、安定を追求すれば個性が犠牲になるという世界です。反対に、福音の世界では、個性が増せば増すほど調和が訪れるのです。パウロはこれを「キリストのからだ」と表現しています。ですから、「大宣教命令」とは、世界中をユダヤ人化することでも、所謂「キリスト教文明」で世界を支配することでもありません。徹底的にユダヤ的な福音書だからこそ、異邦人の登場に意味が込められているのです。

 

第二に、宗教の位置についての問題です。律法の宗教であるユダヤ教は、イスラム教などと同様、他宗教に対して程度の差こそあれ排他的です。法律というものは例外ばかりあっては何の意味もない以上、当然のことでしょう。しかし、マタイ福音書で、異教徒の占星術師がキリスト誕生の証言をしているのは、簡単に言えば、キリストは宗教の枠を超えているということです。キリストはキリスト教の教祖でないことはもちろん、キリスト教の枠だけで通用する存在ではありません。神が唯一であるというのは、神は物ではないので数えられないということでもありますが、大切なのは「普遍」であるということです。一部の人や地域、時代にしか通用しないのでは神とは言えません。キリスト教も含め、諸宗教には夫々の個性、特徴があるとともに、共通する普遍的に要素もあります。神の被造物である世界には、普遍的な自然法則がありますが、さらに「霊的」な領域もあり、そこに

も、普遍的な要素があります。普遍性がない特殊なだけの宗教であれば、当事者以外には関係のない話です。反対に、諸宗教の共通部分だけを抽出したような個性のない人工的宗教も、生きた力を持つことはありません。

 

異教の占星術という、ユダヤ律法では全く受け入れられない世界であっても、そこに何らかの普遍的な要素があり、神はそれを用いることがお出来になります。しかも、その普遍的なものを、その宗教の個性に従ってキリストを証言することが可能でした。民族・国家の場合同様、キリストに贖われ、キリストに仕える個性は、ますます個性的になると同時に、普遍的な価値を持ち、他者に仕えることが可能となります。

私たちは改めて、私たちを救うのはキリスト教ではなく生きているキリストご自身であることを感謝したいと思います。

 

<考察>

1.ヘロデが、異邦人の話を真に受けたのは何故でしょう?

2.諸民族が造られたことが、何故神を求めることにつながるのでしょう?

3.身近に、福音につながる普遍的な何かがありますか?