礼拝メッセージ要約

20211219

マタイ福音書117節から 25

「キリスト誕生の意味 」

 

1:17それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

1:18イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。 

1:19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。 

1:20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 

1:21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 

1:22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 

1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) 

1:24ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、 

1:25そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

 

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今年もクリスマスの季節がやってきました。行事は毎年繰り返されますが、イエス様の誕生という歴史上の出来事は一回限りでした。その歴史の流れの中で「カイロス」(神の時)を見逃さないようにしなければなりません。マタイはその福音書の冒頭に、アブラハムからイエス様の夫ヨセフを経由して、キリストまでの系図を載せています。そして、その系図について、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン移住、バビロン移住からキリストまで、それぞれ十四代であったと書いています。これは、この系図が、過去の記述以上に象徴的なメッセージを持っていることを表しています。というのは、聖書を調べると、実際は、それぞれ十四代よりも多い人がいるなど、厳密に一致しているわけではないからです。

 

ではなぜ、わざわざ十四代の区切りをつけたのでしょうか。14は、ユダヤのいわゆる完全数7の2倍で、14日(2週間)という期間は聖書にいくつか登場しますが、無理やり関連性を求める必要はないでしょう。重要なのは、まず十四代ずつに区切られている三つの時代のことです。もう一つは、この系図の中で、ダビデだけには、固有名詞だけでなく、王という称号が付けられているということです。この福音書のテーマが、まさに「王」であることを表していると考えられます。まずは、三つの時代区分について確認しましょう。

 

アブラハムからダビデまでというのは、ユダヤ民族の歴史の第一歩から、イスラエル王国の樹立までの期間です。この時代は、基本的に(サウルを除いで)王のいない時代です。イスラエルの王は本来、ヤハウェ(神)であり、周辺他国のような人間の王を置かず、限定的な力しか持たない士師(さばきつかさ)や、預言者の指導の下に民は暮らしていました。しかし、定住生活を続けていくうちに、民は王を欲しがるようになりました。それに対して、最初、預言者サムエルは、神が王であるということで民の要求を受け入れませんでしたが、神はサムエルに対して、警告と共に、民の要求を受け入れるように指示しました。その警告とは、王は徴兵もするし、立派な宮殿を建て、多くの税金を取り立てるというものです。人々はそれでも欲しいというので、神は王政を許可しました。しかし、イスラエルの王はあくまでも神の権威の下にいなければなりませんでした。それは、イスラエル史上最高の王とされるダビデでも同じで、彼が犯した時には厳しい罰が与えられたのです。

 

それでも、ダビデとその息子ソロモンの時に、イスラエル王国が樹立され、繁栄を極めました。しかし、そこからは、堕落した王たちが頻出し、王国は分裂して、ついにはバビロンに捕囚されるまでになりました。これが第二区分で、王政の限界を示しています。そして、バビロンから帰還してからキリストまでの期間が第三区分となります。この時代に、律法と神殿を基盤として、いわゆるユダヤ教が確立されます。問題は、その確立が完成形なのかということで、新約はそうではないということを告げているのです。すなわち、以上の三つの区分は、キリスト到来のための準備であり、系図上の14代ずつの区切りは、それが神のご計画であるというのがマタイ福音書の告げていることなのです。そして、この三つの区分から見える、王政の確立と失敗、律法の樹立と無力などが、キリストの到来を必要としていることを明らかにしています。

ちなみに系図については、問題のある女性や異邦人が含まれていることが注目されますが、この、世界宣教の予兆という大切なテーマについては、しばしば語られているので、今回は触れません。

 

さて、この系図の中心がダビデ王であることは明らかです。彼だけに「王」という肩書がついていること、また「ダビデ」のへブル文字が数字では14となることなどが理由です。このようにダビデは特別視されていることから、苦難にある王国を救うメシヤが「ダビデの子」と呼ばれるようになりました。新約でイエス様はダビデの子としても呼ばれているのはそこから来ています。しかし、ここからが肝心な所です。イエス様が「ダビデの子」と言う時の意味が問題となります。それが、ただダビデと同じような人物の再来なのかということです。福音は、メシヤである「ダビデの子」は本質的にダビデと異なると告げています。その違いとは聖霊です。マリヤがイエス様を聖霊によって身ごもったという出来事がそのメッセージなのです。

 

マタイによる「系図」では、アブラハムからマリヤの夫ヨセフまでの血統が連続していることが示されています。しかし、イエス様は聖霊によって生まれたので、ダビデの「家系」ではあっても「血統」ではないということがポイントです。つまり、14代ずつの区切りで連続してきたものは、ここで質的に転換し、もう次の14代は不要になったということです。今や、聖霊の時代が始まりました。そして、聖霊によって誕生したお方が、その後、聖霊によって作り変えられる民の王となられたのです。「家系」はユダヤ人の問題ですが、「血統(血肉)」によらず聖霊によってというのは、すべての人に適用されることです。これは、単にユダヤ人と異邦人、ユダヤ教とキリスト教の区別という問題ではなく、「王」の権威、すなわち、「支配」とは何かという問題なのです。

 

「血統による王」、あるいはそれの現代版である大統領制度にしても議会制民主主義にしても、権力は究極的には法律と実力(あるいは武力)によって統治します。いわば、「外側から」支配するのです。しかし聖霊による王は聖霊によって「内側から」働きます。ただし、世俗の権力も、聖霊をまねて、メディアや教育・プロパガンダなどで人々を洗脳し、人々が「自発的に」権力に従うようにコントロールしようとします。一種の「カルト化」です。ですから、神からくる、愛と義と聖さの霊か、それとも、この世の、敵意と抑圧と汚れの霊か、そのどちらに身を委ねるかを選択しなければならないのです。

 

<考察>

1.先祖から受け継ぐものと乗り越えるべきものは、どのようにしたら見分けられるでしょう?

2.「王」を欲しがる民衆の心理はどのようなものでしょう?

3.「クリスマス」を通して、どのように福音が伝えられるでしょう?