礼拝メッセージ要約

20211212

マタイ福音書1815節から 22

「赦すことについて」

 

18:15また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 

18:16もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。 

18:17それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。 

18:18まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。 

18:19まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 

18:20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

18:21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 

18:22イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

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「小さい者」のひとりでも滅びることを望まないという、神の御心が語られたことに続いて、問題が起きた時の実際的な対処について語られています。ここで、どのような問題が扱われているのかは分かりません。ただし、原典の中には、「あなたに対して、罪を犯したなら」と「罪」が対人的な種類であることを示唆しているものもあることから、クリスチャン共同体の原理である愛に背く何かしらの問題と考えて良いでしょう。(ちなみに、異邦人か取税人のように扱いなさいという部分も、「あなたにとって」と明示されています)。いずれにしても、ここでは、問題に対して、段階的に対処するように言われています。

 

まずは、相手と一対一で向かい合います。罪を直接指摘すべきであり、この段階では第三者を関わらせるべきではありません。要するに、個人的な問題として扱うということです。これで上手くいかない場合は第二段階に進みます。一人か二人に同行を頼み、数名の証人という形をとるということです。つまり、公開はしないが、最低限の客観性を確保するということです。(この段階で、自分側の問題が明らかになる可能性もあります)。それでも埒が明かない場合は、教会内の公的な問題として取り上げるしかありません。これで決着しなければ、問題の相手と教会の関係が切れてしまうことになります。「異邦人か取税人のように扱う」というのは、クリスチャンではなく、一般の人として扱う、つまり、教会外の人として接するという意味です。(排斥し弾圧するのではないことは当然です)。その人とのかかわり方は、一からやり直しとなるということです。

 

このようなプロセス自体は、実際守られるかどうかは別として、社会での一般的な原則と言ってよいでしょう。ただし、教会特有の要素もあります。第一に、これは人間関係一般のトラブルではなく、だれかが「あなたに対して」罪を犯した場合の話だということです。トラブルが起きるのは通常双方になんらかの問題がある場合であって、明確に一方が他方に対して罪を犯すというケースは、通り魔犯罪や詐欺のような世間の事件ならともかく、教会の中では稀なことでしょう。教会内で何かトラブルがある時に先ずなすべきは、相手の所に行って直談判するのではなく、まず自分自身について反省することです。要するに、トラブルという現象と、「罪」という本質を区別することが必要であり、そのためには、神からの知恵をいただかなければなりません。

 

第二の注意点は、ここで、二人だけの所ですることは罪を責めるという、かなり厳しい行動であり、話し合いに行くわけではないということです。このことからも、問題が明確な「罪」であり、放置することができないものであることが分かります。「相手が罪の指摘を聞き入れ、悔い改めるなら、兄弟を得たことになる」とあるように、罪が、兄弟姉妹としての関係を破壊するものであり、戒めは、その関係を回復するものだということがポイントです。「責める」ことが、相手を潰すことになっては本末転倒だということです。そして、「兄弟姉妹」が何を意味しているかということです。それは、考え方や趣味嗜好、利害関係の有無などの問題ではなく、ただ一点、親が同じだということでなければなりません。私たちは、皆同じ親を持つ子ども同士という関係にあるのですから、この和解のプロセスのどの段階においても、すべてを「親」である天の父に持っていくことが必要なのです。

 

最終段階では、教会全体の問題となりますが、これも、「教会」が何を意味しているのかが重要です。もしそれが、キリスト教の同好会のようなものなら、話が通じない人には退会してもらえば済むでしょう。しかし、未信者と同等にみなすとなると話は別です。つまり、所謂「破門」という問題が出てくるのです。自分の所属する教団教派や教会に合わない者は、もはやクリスチャンではないと宣言する、カルト的な思考に陥る危険があるということです。このことからも、いわゆる単なるトラブルと「罪」を峻別する知恵が必要だということが分かります。それでは、何が「罪」ではない問題だと言えるでしょうか。まず「教義」の違いです。違う教義の人があなたに対して罪を犯すわけではありません。しかし、古来、受け入れがたい教義の教会を異端として破門するということが行われてきました。むしろ、異なる考えを排除する自分自身の在り方を問うべきです。また、性格の不一致や行動方針の方向性の違いなどの一般的なトラブルも罪ではありません。方向性があまりに異なるならば、別々の道を歩むことはありえますが、「未信者」と同じに扱うという類の話ではありません。

 

このように、「罪」を見分けることは容易ではなく、聖霊の働きが必要です。単に律法の規則違反という問題ではありませんから、ただ神の前にへりくだり、聖霊に導いていただかなければなりません。そのうえで、実際的な行動を起こすことになります。ただし、上記の3ステップの話だけでは事はすみません。なぜなら、自分に対して罪を犯した人を何度まで赦すべきかというペテロの質問に対して、イエス様は「七度を七十倍するまで」赦すべきだと言われているからです。これは実質的には無制限に近い赦しであると言えるでしょう。すると、上記の3ステップと赦しそのものは別のことだと考えなければなりません。つまり、「赦して欲しければ、この3つステップのどこかで謝罪しろ」と要求するような話ではないということです。「赦し」は、こちら側が一方的に行うことであり、相手の状態には関係ないのです。これは、すなわち「福音」のことです。神は私たちが罪人である時に、十字架により一方的に赦しを提供してくださいました。赦しは恵みであり、私たちの状況に依存しないのです。この十字架を土台として、神は私たちに「和解」を懇願しておられるのです。私たちは、常に福音に集中し、福音に生かされ、福音の道を歩まなければなりません。その上で、「赦し」は罪の放置ではなく、和解に向けた具体的なプロセスが伴うということが、今回の箇所で語られていることです。そして、「ふたりが心を合わせて祈る」内容も、この文脈で言われていることを忘れないようにしましょう。

 

<考察>

1.「あなたに対する罪」とは、例えばどのようなことでしょう?

2.「カルト的」思考に陥らないためには何が必要でしょう?

3.赦しを継続するには何が必要でしょう?