礼拝メッセージ要約

2021125

マタイ福音書181節から 7

「一番偉い者」

 

8:1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 

18:2そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、 

18:3言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。 

18:4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 

18:5また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。 

18:6しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

18:7つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

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イエス様が三人だけ連れて山に登られたことが関係しているのかは分かりませんが、弟子たちの間で、優劣を競っていたことが明るみに出ます。「だれが一番偉いのか」とありますが、文字通り訳せば、「だれが、より偉い(大きい)のか」という比較の文となります。そもそも、他人と比較して自分の価値を考えている時点で、弟子たちは誤っていますが、ここの問題は少し複雑です。というのは、弟子たちの関心は自分の価値ですが、それは同時に天の御国においての価値観にも関連しているからです。この世での評価というのは分かりやすいですが、果たして、天の御国(神の国)ではどうなのか、いわば、神の国における評価基準は何なのかということです。他人との比較はともかくとして、神の国の基準から見て、よりすぐれた人物でありたいと願うこと自体は、あながち否定されるものではありません。しかし、神の国の価値基準とは何でしょうか。

 

弟子たちの質問に対して、イエス様の答えは新たな「たとえ」になっています。小さい子どもを呼び寄せ、悔い改めて子どもたちのようにならなければ、そもそも神の国に入ることができないというのです。だれが偉いかではなく、入れるかどうかが問われています。小さい子どもというのは、当時の社会では、現代の無邪気でかわいらしいというニュアンスではなく、無知で無力の象徴でした。文字通り、「小さい者」と言っていいでしょう。弟子たちは「大きい者」について尋ねたのですが、「大きい者」とは「小さい者」のことだというのがイエス様の答えでした。「偉大な者」とは「ちっぽけな者」のことなのです。そして、弟子たちも「悔い改めて小さい者」にならなければならないのです。ここで「悔い改めて」とあるのは、「方向転換して(ステレフォー)」という言葉で、よく使われる「思いの転換(メタノイア)」とは別の単語ですが、実質、同じと考えて良いでしょう。ここでは単純に「転換」と訳しておきます。そして、この文章は「受動態」ですから、自分で転換するのではなく、転換させられるという意味になります。つまり、「よし、もっと謙虚になろう」と決心するのではなく、「子どものように無力な者とされる」ことが、神の国に入る条件だということです。

 

「無知で無力」にさせられると言っても、もともと知恵と力のある人が変えられるというのではありません。知恵と力があると「思い込んでいる」人が、無知で無力である現実に直面させられるという方が正確でしょう。これも、他人と比較して、自分の方が無知だという話ではありません。人間である限り、だれでもいくらかの知識や力はあるのですから。しかし、本当に無知で無力だということは、神の恵みによらなければ分かりません。それが、「子どものようにさせられる」という意味です。

 

ただし、この事態について、次の節では「自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人」だと言われています。これは受動態ではなく、自分で自分を低くするということです。ですから、神の恵みは受け取るものですが、「受け取る」こと自体は自分ですることが必要だということです。人は、いくら自分でへりくだったとしても、完全ではありません。ただ、へりくだって、「自分は無知・無力であるのに、心底ではそう思っていない罪人です。(つまり不信仰な者です)。そのような私を助けて下さい」と祈る者は、神の恵みにより、「無知・無力な者」とされて受け入れられるのです。「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」という使徒パウロの言葉もこの事とつながります。

そして肝心なことは、そのようにして神の国に入れられた者は、皆が「一番偉い人(大きい人)」とされるということです。ここでも、他人との比較は意味がありません。全員が「一番」なのですから。人にとっては、神の国に受け入れられること自体が最高の光栄であることを忘れてはなりません。

 

神の国に「受け入れられる」ということに続いて、「小さい者」を受け入れることと、キリストを受け入れることが同列に語られます。この「小さい者」は、もちろん子供一般ではなく、キリストに受け入れられた人たちのことです。キリストが頭で、キリスト者はその肢体であるという、「キリストのからだ」の奥義がその前提にありますが、詳細は使徒パウロが解説しています。今回の箇所の段階では、弟子たちは奥義の理解は無理でしたが、イエス様と自分たちの絆は感じたことでしょう。

 

現代の日本の場合、「あの人は敬虔なクリスチャンだ」という表現が時々され、人格者という評価をされることがあります。(もちろん、正反対のケースもあります)。しかし、聖書のメッセージは、その人が立派な人だから受け入れるということではなく、「わたし(イエス様)の故に受け入れる」ということです。つまり、無知・無力な罪人が、キリストの十字架の故に生かされているという現実を受け入れるということです。それが、実質的にキリストを受け入れることになるのは当然のことでしょう。

 

さらに、その「小さい者」をつまずかせることがいかに酷いことかも語られます。「つまずかせる」とは、罠にかけて罪を犯させるという意味です。キリストご自身はすでにサタンの誘惑・攻撃をしりぞけて勝利されましたが、小さい者たちは、まだまだつまずくことがあります。そして、そのような現実は残念ながら避けられません。しかし、つまずかせようと試みることは、イエス様に対する攻撃に他なりませんから、それが大きな罪であることは当然です。キリストのからだに対する行いは、キリストご自身に対してなされることとみなされるのです。ただし、注意しなければならないことが二つあります。一つは、「キリストのからだ」とは、現実にキリストとつながっている人たちのことであり、必ずしも所謂「キリスト教団体」は同じではないということです。もう一つは、「神やキリストを冒涜しても、聖霊に対する冒涜でなければ赦される可能性がある」という、イエス様のことばがあるということです。十字架の赦しの力を制限してはなりません。だれでも主の名を呼ぶものは救われるのです。

 

<考察>

1.他人と比較したくなるのは何故でしょう?

2.比較が意味のない世界で「謙遜である」とは、どのような状態のことでしょう?

3.他人をつまずかせることを喜ぶとは、どのような心理でしょう?