礼拝メッセージ要約

20211128

マタイ福音書1724節から 27

「神殿の示すもの」

 

17:24また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」 

17:25彼は「納めます。」と言って、家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」 

17:26ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。 

17:27しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

        *******************************

 

イエス様を攻撃する宗教家たちは、主に三つの点を問題にしています。不道徳な人たちと付き合っていること。安息日をないがしろにしているように見えること。そして、神殿に対する態度。この三つです。今回の箇所は、神殿(宮)に関することです。当時、成人男子は神殿維持のために神殿税を納める決まりがありました。この税金を集める者がペテロに、イエス様は神殿税を納めないのかと質問します。要するに、イエス様がユダヤ教律法を守っていないのではないかと責めているのです。これに対して、ペテロはイエス様に確認することもなく、納めていると答えますが、イエス様はペテロに、そもそも納める義務はないと言われます。理由は、王は自分の子どもから税を取り立てたりしないというものです。このことから、まず、イエス様の神殿に対する立場を見ていきましょう。

 

イエス様は、少年の時に神殿で大人たちと議論をし、連れ戻そうとした母親に、自分は「父」の家にいるのだと答えられました。「契約の箱」が収められている神殿は、まさに神の臨在の象徴ですから、イエス様がご自身の家だと言われるのは当然です。ただし、今回の箇所では、イエス様がご自身だけでなく、ペテロも税を納めることになっているので、「イエス様は神の御子だから税を納める必要がない」という議論とは別のところに問題があります。

 

その問題は、神殿が神の臨在そのものなのか、それとも臨在の象徴なのかという点です。

もし、臨在そのものだとすると、臨在を維持するために神殿を維持していることになります。そして、神殿を維持するにはお金がかかります。つまり、お金と臨在が直結してしまいます。「地獄の沙汰も金次第」ではありませんが、宗教も結局金次第だという非難を招くことになります。しかし、神はお金を必要としていないという、至極当然なことが、しばしば忘れられ、無視されてしまいます。お金が必要なのは人であり、人は「暫定的に」象徴を必要とします。そして、その象徴を作り維持するためには費用がかかるのです。エルサレム神殿のためにお金が必要であること自体は、イエス様も否定はされません。しかし、イエス様も、そして、後にキリストのからだとされる弟子たちも、象徴自体には依存していないのです。神殿税を納める「義務」がないというのは、そういう意味です。

 

神とその象徴を混同しないというのは大原則です。しかし、宗教はそれをしばしば破るので、「神が人を造ったのではなく、人が神を造った」などという、宗教に対する非難が起こるのです。最初の神殿を作ったソロモン王でさえ、神殿に神を収めることなど不可能だと言っています。象徴の限界をしっかり知った上で、象徴の働きを理解しなければなりません。まず大事なのは、象徴は暫定的なものだということです。つまり、時とともに変わることがあるのです。象徴が変わっても、象徴が指し示しているものは不変です。つまり、神殿は変化しますが、それで神が変わるわけではありません。むしろ、象徴は変わるからこそ、それが象徴であることが分かるのです。新約(福音)には、象徴としての神殿が変化するという、重大な内容が含まれています。すなわち、石でできたエルサレム神殿から、生ける神殿、つまり、キリストのからだと呼ばれる、キリストをかしらとし、キリスト者を肢体とした、歴史を貫き、世界に拡がる神殿への変化です。このメッセージは、もちろん、イエス様が復活し、聖霊が注がれてから明らかになってきたものです。しかし、イエス様の地上での言動は、すでにそれを予感させるものであったので、時の宗教家は、イエス様を神殿の破壊者とみなしたのでした。

 

キリストのからだ(エクレシアなる教会)が、神の臨在の象徴となりましたが、もちろん、象徴にはお金がかかります。いわゆる教会組織の費用というよりも、そもそも、キリストのからだを構成している人間ひとりひとりも、地上で生活する以上、費用がかかるのは当然です。それは、神から預けられたものを如何に使うのかという問題となります。以前、「コンクリートから人へ」という政治的標語がありましたが、聖書では、石による神殿から人による神殿へという大転換が起こりました。このことを土台として、神から与えられたものの管理・運用を考えていく必要があります。

 

神殿の問題は、宗教とは何かという本質的な問題につながります。つまり、神殿に代表される宗教は、神のためにではなく、人のためにあるということです。人は、神に創造されたものであり、神のために存在しているのは当然ですが、宗教自体は神ではなく象徴であり、神と人とを仲介する限定的なものに過ぎません。神に宗教は必要ありませんが、有限な人間にとっては、用い方次第で有用なものです。エルサレム神殿も、そして、今日まで存在する様々なキリスト教も同様です。肝心なのは、今や、私たちという生身の人間が神殿なので、その他のものは根本的には必要ないということです。つまり、神殿や儀式、戒律といったものによってできた、いわゆる「宗教」は、神と私たちを結び付ける手段としては必要ないのです。私たちは、キリスト教ではなく、キリストによって神と直接つながっているからです。それが私たちの自由ということです。

 

その上で、今回の場面でイエス様とその弟子が示しているのは、「義務ではなくても、人をつまずかせないためには、自発的に自由を制限的に行使する」という新約の原則です。彼らに神殿税を納める義務はありませんでしたが、人をつまずかせないために納めたのです。この問題に関しては、使徒パウロも、市場で売っている、偶像に捧げられた肉を食べてよいのかというケースを取り上げています。本来、肉は神が造ったものなのだから、神に感謝して食べることは問題ないが、そのことで他の人たちがつまずくのなら、食べることはしないと言っています。まとめると、愛の原則に従って自由を行使するということになります。ここで「つまずかせない」というのは、まだ、自由度が低い人には、その限界を尊重し、無理やり、自由を強制しないという意味です。いわゆる「幼子」への対応です。しかし、人は成長して大人になり、同時に自由度も増していきます。それを祈りと忍耐と励ましで支えていくのが「愛」です。そして、その土台は、神がまず私たちを愛してくださったという絶対的な事実なのです。

 

<考察>

1.人間が、神殿など様々な巨大宗教建造物を作るのはなぜでしょう?

2.石の神殿と人の神殿の根本的な違いはなんでしょう?

3.「つまずかせない」ことに関しての具体例をあげてみましょう。