礼拝メッセージ要約

20211114

マタイ福音書171節から 8

「イエスの変容」

 

17:1それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。 

17:2そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。 

17:3しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。 

17:4すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 

17:5彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。 

17:6弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。 

17:7すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。 

17:8それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

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「イエスの変容」あるいは「山上の変容」として知られている箇所です。「変容」とは、例えば、さなぎが蝶に変わるときに使われる言葉で、同一のものの姿が全く変わってしまうような出来事を指しています。確かに、日頃見慣れているイエス様の姿が変わってしまったのですから、見た目は変容ではありますが、実は、この「変わってしまった」神々しいお姿が、イエス様の本来の姿だとも言えるので、神の子としての真の姿が、一時的に垣間見えた出来事、「限定的な顕現」と呼ぶ方がふさわしいように思えます。もっとも、当時の諸宗教では、神々が人間に変容したり、その逆があったりして、一つの大切な言葉でもありました。さらに、使徒パウロは、聖霊によって私たちが「主の姿に変えられる(変容される)」とも語っていますから、「変容」にも様々なニュアンスがあることが分かります。

 

では、この箇所の出来事を見ていきましょう。イエス様は、ペテロなどの3人を連れて高い山に行かれました。この3人は、「内弟子」のような存在で、「ゲッセマネ」の祈りの時も同行しています。どちらの場合も、イエス様が祈っておられ、彼らは眠くなりました(マルコ福音書参照)。眠くなった問題はひとまず置いておくとして、彼らが、イエス様のプライベートな祈りの証言者とされたことは大切なポイントです。イエス様の「プライベート」は、実は、私たちのための「公的」な意味も持っていることを表しているからです。つまり、イエス様の祈りは彼自身のためではなく、神の意思を実現するためであり、結果として、それが私たちのためになるということです。

 

この出来事の時期については、ただ「6日後」とあり、単純に読めば、ペテロの信仰告白から6日後のことになりますが、一説によれば、これは「仮庵の祭り」の中の6日目とも言われています。弟子たちが「小屋を作りましょうか」と言った小屋は、仮庵をも指しているからです。仮庵の祭りは、エジプトを脱出したユダヤの民が、神の栄光のもとに導かれ、幕屋で過ごしたことを記念するものです。弟子たちが、神の栄光に包まれたイエス様の姿を見て、仮庵を思いついたとしても不思議ではありません。とはいえ、場違いな発言であることには変わりありません。

 

仮庵の祭りの期間(出エジプト後を表す期間)であったかどうかはともかく、イエス様の変容は、モーセが律法を授かり山から下りて来た際、彼の顔が輝いていたという伝承を連想させます。今回の出来事にモーセが登場するのも頷けます。弟子たちにとっては、まるで天上の出来事のように思えたことでしょう。さらに、そこには預言者エリヤも現れます。エリヤが最後、生きたまま天に上げられたとの描写があることから、今も天にいて、メシヤが来られる時に、その先駆けとして現れると信じられていました。(因みに、モーセについては、聖書では死んだと明記されていますが、埋葬された場所はだれも知らないとあることから、実は今も生きていると信じている人がいました)。いずれにしても、天上の光景が山上で垣間見られたというような状況でした。

 

このいわば「天上の会談」で話し合われていたのは、ルカ福音書によれば、まもなくエルサレムで行われるイエス様の「最後」についてでした。この「最後」という言葉は、「出発」という意味ですが、出エジプトと同じ単語であり、また「死」をも意味することがあります。要するに、イエス様の十字架の死は、地上から出ることでもありますが、昔の出エジプトと関連しているということです。第二の出エジプトと言ってもいいでしょう。このことについてモーセとエリヤが加わって話をしていたのです。ここでモーセは「律法」、エリヤは「預言者」を代表していることは言うまでもありません。「律法」と「預言者」で当時の聖書(今の旧約聖書)全体を表しています。ですから、この「会談」は、「律法と預言者」がイエス様の十字架について語っていることを表しています。要するに、イエス様の十字架は、聖書(旧約聖書)が証言しているということです。

 

ただし、十字架(と復活)が旧約聖書に書かれているというのは、常識的にはそれほど明確なことではありません。それは、この「山上の変容」のように、神の光の中で初めてはっきりしてくることだからです。それなしにただ読んでも、「そう言われればそうかなあ」という風にしか分からないのです。天のことは、聖霊によらなければ、地上のことに置き替えてしか理解できないからです。当時、変容の現場にいた弟子でさえ、その意味を悟るのは聖霊が下ってからでした。私たちも聖霊の場の中に留まりつつ聖書を読まなければなりません。

 

さて、その変容の現場で天から声がありました。「わたしの愛する子」という、イエス様がバプテスマを受けた時と同じ言葉です。ここで、この言葉が繰り返されたことは重要です。バプテスマの時だけであれば、神に愛される子と言っても、あくまで聖霊に満たされた一人の人間だとも考えられます。しかし、今回、イエス様の神的な姿と共に「愛する子」と語られたのは、聖書全体を成就する「子」、すなわち「神のことば」そのもののお方であることを表しています。つまり、神に愛されている多くの子の中の一人ではなく、「神の御子」だということです。ですから、神はこう言われます。「彼の言うことを聞きなさい」と。これはもちろん現場にいた弟子たちに向けた言葉ですが、同時に私たちにも当てはまることです。変容の現場に限らず、神的な体験をすることは素晴らしいですが、結局必要なことは、キリストに聞くということです。「聞く」とは、いわば、神のことばが「心に刺さる」ようなことですが、それも、律法や戒律としてではなく、いのちの糧として恵みによって与えられるものです。生きた言葉は、時と場合によって適応が変化します。先入観にとらわれず、神の前にへりくだり、聖霊の促しによって聞き、従っていくことが求められます。その時に、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます(変容されます)。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第2コリント318節)

 

<考察>

1.イエス様は山で何を祈られていたのでしょう?

2.弟子たちはなぜ眠くなってしまったのでしょう?

3.キリストのことばで戸惑ったことはありますか?