礼拝メッセージ要約

2021117

マタイ福音書1621節から 28

「十字架の予告」その2

 

16:21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。 

16:22するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

16:23しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 

16:24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 

16:25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 

16:26人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。 

16:27人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。 

16:28まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

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前回学んだように、サタンの道とは、人間の栄光(他人からの賞賛)を第一の目的をして歩む道であり、キリストの道とは、神の栄光を十字架に見出し、恵みの中で神の子として歩む道のことでした。この十字架の道への招きに続いて、有名な「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだす」という言葉があります。もちろん、まずは、これから十字架に向かって進んでいかれるイエス様に、命がけで従う覚悟があるのかを弟子たちに問うていると考えられます。単純化すれば、殉教の覚悟についての言葉ということになります。ただし、この言葉には、それ以上の霊的な内容があります。

 

この箇所でまず鍵となるのは、「まことのいのち」という言葉です。これを損じてしまったら、全世界を得ても何の意味もないのです。このことから、25節はこのように読むことができるでしょう。「自分のいのちと思っているもの(この世で言うところのいのち、一時的ないのち)を救おうとすると、それは実は真のいのちではなく、たとえ、それを一時的には維持しても、いずれは失ってしまうし、まことのいのちに至ることもない。しかし、キリストのためにいのちを失う(十字架の道を歩んで、この世の一時的ないのちは損なう)としても、まことのいのちを見出すことができる」。

 

では、「まことのいのち」とは何でしょう。ここで「いのち」というのは「プシュケー」という言葉で、しばしば「魂」とも訳されています。ちなみに、通常いのちと訳される言葉は他に二つあります。ビオスとゾーエーという言葉で、ゾーエーは、「永遠のいのち」という表現の方に使われています。プシュケーもビオスもゾーエーも全部「いのち」でくくられてしまうと、意味がよくわからないので、少しひも解いていきましょう。

まずビオスとゾーエーですが、その違いについては諸説あるものの、大雑把に言うと、ビオスは生態(動植物の場合)や生活様式(人間の場合)等を表し、「生き方」と訳すこともできるでしょう。対して、ゾーエーは「生きている状態そのもの」を表しています。すなわち、「生死」の中の「生」を指します(すなわち、死と反対の状態)。このうち聖書で主に登場するのはゾーエーで、永遠という言葉と組み合わさると「永遠のいのち」となります。(「ゾーエー」が必ず永生を意味するわけではありませんが、新約聖書では、しばしばゾーエーだけで永遠のいのちを指すことがあります)。

 

今回の個所は、そのいずれでもなく、「プシュケー」について語られています。(つまり、生活形態や単純な生死の話ではありません)。プシュケーは、魂や心を表したり、時には単に「人」を指す事もありますが、創世記の記述によれば、物質でできた人に、神が「いのちの息」を吹き込むと、それは「生きた魂(プシュケーのヘブル語)」となりました。これは、生きた人ということでもありますから、「人格的ないのち」と呼ぶこともできるでしょう。このことから分かるのは、人は人である以上、皆人格がありますが、それが「生きて」いるか、つまり、まことのものなのかどうかは、神の息、すなわち、神の霊が吹き込まれているか否かにかかっているということです。

 

ですから、「まことのいのちを損じたら云々」の「まことのいのち」とは、生きたいのち、つまり、神の霊によって存在しているいのちのことになります。人格を神から切り離して、それ自体で自立しているかのように思い、そのように生きているならば、それは、まことのプシュケーではなく、滅びていってしまいます。しかし、生まれながらの人格に固執せず、キリストのもとに投げ出し、キリストのものとされるなら、そこに神の霊(聖霊)が働き、そのプシュケーは生きたものとなります。そのような人格(プシュケー)が、ゾーエー(永遠のいのち)を持っているのです。

 

このような「プシュケー」の在り方の対比は、よく誤解されるような、いわゆる本能的で野蛮な生き方と、道徳的で立派な生き方の対比ではありません。むしろ、その人の人格が、自立した人としてだけの人格なのか、神にあって存在している人格なのかという問題です。ですから、いくら世間的に立派な人であっても、神のいのちによらなければ、結局、自分自身の「まことの人格」という肝心なものを失うことになります。そして、自分のプシュケーは、何をもってしても買い取ることなどできません。そもそもそれは、神にあって存在しているのであり、それを「自分のもの」と言えるのは、ただ、神の恵みによって許されているからです。

 

以上のことがらに続く27節以下は、やや唐突な感もありますが、一般的な終末論の話になります。しかし、終末論の詳細はどうであれ、要点は明らかです。すなわち、まことのプシュケー(人格)を失うというリスク(それが裁き)はあるという厳粛な事実であり、それは遅かれ早かれ現実のものとなるということです。その時が迫っているというのは、バプテスマのヨハネ以来のメッセージではありますが、歴史上では、究極的な「裁き」は当時はまだ起こらず、ただ、イスラエルの崩壊とユダヤ人の離散という、悲劇が起こりました。いわゆる「再臨の遅延」問題と呼ばれている事柄です。しかし、その「遅延」は神の恵みがイスラエルを超えて、全人類に及ぶためのものです。ユダヤ人のつまずきが、異邦人の救いにつながり、やがては、異邦人の救いをきっかけとして、ユダヤ人が救われる、これが神のご計画であり、パウロの言う「奥義」なのです。

そして、大きな歴史だけではなく、一人一人の地上の人生にも「終わり」があるという、厳粛な事実も忘れてはなりません。

 

<考察>

1.日本語では、「いのち」に関連する言葉として、どのようなものがありますか?

2.現代文明は、「いのち」をどのように捉える傾向がありますか?

3.「人格」とは何でしょう?