礼拝メッセージ要約

20211024

マタイ福音書1613節から20

「ペテロの信仰告白」

 

16:13さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」 

16:14彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

 16:15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 

16:16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 

16:17するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。 

16:18ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 

16:19わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」 

16:20そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。

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宗教家たちは執拗にイエス様の権威に異議を唱えていました。一方、多くの群衆は、イエス様の癒しの力や奇跡に惹きつけられていました。結局、イエス様は何者なのかということが問われているのです。それが今回の箇所の状況です。

まず、イエス様は弟子たちに、「人々は、人の子をだれだと言っていますか」と尋ねました。「人の子」は、イエス様がご自身を指す時にしばしば使われる言葉です。「人の子」は、通常は単に人の意味ですが、黙示思想の中では、ダニエル書にあるように、終末時に天から現れるメシヤを指すこともありました。ただ、この箇所については、マルコ福音書では「人の子」のところが単に「わたし」となっていますから、とりあえず「イエス様はだれだと思うのか」という問いだと解釈してよいでしょう。そしてそれは、今日も私たちすべての者に問われていることでもあります。

 

当時の群衆は、この問いについて、様々な答えを持っていました。ヘロデはバプテスマのヨハネが生き返ったと思いました。エリヤだと言う人もいました。預言者エリヤは、その昔竜巻によって天に上げられたと言われており、メシヤの前に再来すると信じる人たちもいたのです。(これに対してイエス様は、メシヤの前触れはバプテスマのヨハネだと言われました)。エレミヤだと言うのは、バビロン捕囚の時、彼が契約の箱などを隠し、メシヤ到来の時に、それらを戻すという言い伝えがあったからです。また、「預言者のひとり」ともあるのは、ルカ福音書では、昔の預言者のひとりが生き返った」と書かれています。いずれにしても、イエス様は「預言者」として見られていたことになります。

 

そのような状況下で、イエス様は弟子たちに対して見解を求めました。ペテロの答えが、「あなたは生ける神の御子キリストです」という有名な信仰告白です。マルコ福音書では、単に「あなたはキリストです」となっています。すなわち、イエス様は、単なる預言者ではなく、メシヤ(キリスト)だという告白です。ただし、ペテロが、その「メシヤ」の意味を理解していたわけではなく、この直後にイエス様から厳しく諫められることになります。マタイ福音書でも、諫められるのは同じですから、ペテロは意味が分からずに告白したわけですが、興味深いのは、イエス様がその告白を、天の父からのものだと言われたことです。

 

このことは、信仰告白とは何かを表しています。「信仰」とは、神とは何か、キリストとは何かとい神学の問いに正解を答えることではないということです。「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」というのは、実際に名を呼ぶかどうかが問題なのであって、知的な理解度にかかわらず、そのように神に導かれているという事実が大切だということです。ペテロの場合でも、目の前におられるイエス様に対して、彼なりの信頼を表す言葉として、この告白をしたという所がポイントです。告白内容の理解は不十分であり、正される必要はありましたが、そもそも、正しい理解などというものは、聖霊に導かれ、一生かけて形成されていくものであり、信仰生活に入るための試験などではありません。「聖霊によらなければ、イエスを主と告白できない」とあるように、信仰告白は聖霊によって実現するしかありません。そして、その告白内容の理解もまた、聖霊によって深められていくのです。

 

とにもかくにも、神の導きで信仰告白したペテロに対して、イエス様は、本名がシモンである彼に、ペテロ(岩)という名前を与えられました。昔、アブラムにアブラハムという名が与えられたように、新しい名は、新しい人生の歩みを象徴しています。そして、その「岩」を土台として、キリストご自身が「教会」を建てると約束されました。カトリック教会では、この「岩」をペテロ個人と解して、ペテロの後継者とされるローマ教皇を最高権威とした組織を作っています。一方、カトリック以外では、「岩」を「信仰告白」、あるいは「キリストご自身」と理解しています。これは、「教会」が何を意味するかに関わることですが、元来、「教会」と訳されている「エクレシア」は、「召集された民」という意味ですから、いずれにしても、強調されているのは、人ではなく、天の父によって信仰告白に導かれたという事実です。そのような「エクレシア」は、「ハデスの門も打ち勝てない」と言われています。

 

ハデスというのは、死者が留まる場所のことで、「ゲヘナ」と呼ばれる、裁かれた者が送られる場所とは別です。「ハデス」の詳細は諸説あり、想像の域を出ませんが、実質的に「死」と同義と捉えて支障はないでしょう。ですから、「エクレシア」は死の力を打ち破るという意味になります。この言葉も、エクレシアの理解の仕方によってニュアンスが変わってきます。それを、所謂「教会組織」と解してしますと、「天の御国の鍵」という表現と相まって、組織への所属が、天国行きと永遠のいのちの保証ということになってしまいます。しかし、そうなると、いったいどの組織が正当なのかという、出口のない議論に陥ってしまいます。因みに、18章の記事から、「つなぐ」「ほどく」という言葉が、赦しのことを指していることが分かります。そして、その権威は、ペテロだけでなく、エクレシア全体に与えられていることも明らかです。そうすると、この箇所は、「神に召しだされた民は、赦しの権威を持つ(すなわち福音を携えている)。そして、福音は、人々を死の縄目から解放する」という意味になります。もちろん、そのようなことが可能なのは、「エクレシア」が、人間の組織ではなく、キリストご自身を頭とする、霊的な「キリストのからだ」だからです。要するに、赦しと解放の働きは、キリストご自身の働きですが、今や、それは、キリストに呼ばれ、キリストと一体となった民を通して、この地上において進められているのです。

 

<考察>

1.人々がどう言っているのかと尋ねられたのは何故でしょう?

2.他人ではなく、自分はどうなのかと問われたら、どのように答えますか?

3.「エクレシア」は、どのような存在なのでしょう?