礼拝メッセージ要約
2021年10月17日
マタイ福音書16章5節から12 節
「宗教家たちのパン種」
16:5弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。
16:6イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
16:7すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。
16:8イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
16:9まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
16:10また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
16:11わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
16:12彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。
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イエス様に「天からのしるし」を要求した宗教家たち(パリサイ派やサドカイ派)は、「ヨナのしるし」以外には、イエス様がメシヤであることの「しるし」は無いと言われて立ち去りました。その後、イエス様は弟子たちに、「宗教家たち」のパン種に注意するように言われると、弟子たちは、何を勘違いしたのか、初めは、自分たちがパンを持ってくるのを忘れたことを言われたのだと思いましたが、結局、イエス様の言われる「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」が、「彼らの教え」のことだということが分かったとあります。
「彼らの教え」がパン種に例えられているのは、それが悪い意味で、どんどんパン(実際には人の思いや行動)を膨らませていくものだからです。それ自体は小さく目立たないのですが、人に取り込まれるとウイルスの如く増殖し、人を蝕んでいくイメージです。弟子たちも気を付けていないと、それに感染し、自身を損なうだけでなく、イエス様の共同体(教会)をも変質させてしまう危険があるのです。ですから、この「パン種」が何なのかを理解しておくことが大切です。
まずパリサイ人です。彼らの教えの特徴は、きよめを中心とした厳密な律法主義と、物質的な復活思想を含む終末論でした。律法主義というテーマはいつも登場します。イエス様が律法にまさる権威を持ったメシヤなのかが問われていることは、今まで読んできた通りです。律法主義の問題はいろいろとありますが、ここでは、「権威」との関係を見てみましょう。このような構図があります。まず、絶対的な権威を持った人物(あるいは組織)があります。これが決まると、次にその権威が定めた規則(律法)が制定されます。律法は、背後に絶対的な権威を持っているので、律法自体も絶対的になります。人々にとって、律法の権威に服することと、絶対的な権威を持った人(組織)に服することがイコールとなります。逆に、背後の権力者の権威が弱まると、律法の拘束力も弱まります。パリサイ人がイエス様を攻撃するのは、このような事情があるからです。
現代日本は法治国家です。人々は法律の下にあります。しかし、法を制定する国の権威が弱まれば、無法地帯になります。この事情は昔のユダヤと変わりません。その意味では、律法主義は社会の安定のために必要な装置だとも言えるでしょう。問題は、その「権威」がどのような存在なのかということです。
ユダヤ社会では、それはモーセです。もちろん理論上は神が最高権威ですが、実際問題、神の啓示を受けたモーセと、その啓示の具体化である律法が最高権威となっています。しかし、イエス様の場合、最高権威はイエス様の「父」なのです。色々な意味合いで解釈できる単なる「神」ではなく、イエス様と人格的(神格的)に結ばれた「父」なのです。それは、国家や宗教のような公的なものというより、ある意味では「個人的」(プライベート)な事柄です。イエス様は常に「わたしの父」と呼び、「あなたがたの父」と区別しておられます。それは、差別ではなく、父と子の交わりはプライベートなものだということです。
それなら、イエス様(だけ)の父なら、私たちには関係ないのかと言うとそうではありません。イエス様の求めているのは、私たち一人一人も、イエス様のように、「私の父」と呼べるお方とプライベートな関係を持つようになることです。これは、イエス様が神の権威の下に制定した規則に服する団体に加入しろということとは、全く違います。一人一人にとって「権威」は「私の父」であり、所属する集団(国家、地域、思想信条や宗教団体)ではありません。そのようなものは、大切ではありますが、すべて相対的なものです。相対的なものを絶対視することを偶像礼拝と呼びます。「集団」という相対的なものの規則(律法)を絶対視すること(律法主義)は偶像礼拝なのです。
一人一人がそれぞれ個別に「私の父」の権威の下にあるなら、人間同士の関係はどうなるのかと言えば、「私の父」も「あなたの父」も同じお方なのですから、それは、むしろ、より深いものとなります。それは、団体組織よりも家族に似ているでしょう。(もちろん、人間の家族の場合は、その「父」も単なる人であり、絶対的な権威はありませんが)。以上を聖書の用語でまとめると、私たちは律法ではなく「交わり」によって生きるということになります。
もう一つ、サドカイ派の教えも見ておきます。彼らにとっての権威はモーセ五書です。また、復活思想もないので終末論的ではありません。あくまで現世的です。パリサイ派とは対照的ですが、権威の問題は同じです。ただ、サドカイ派の場合は、律法の日常的な適用よりも、神殿の祭儀によって権威を表していたという点が違います。単純化すれば、「儀式」によって権威を示すと言えるでしょう。そして、その中心がエルサレム神殿です。ですから、イエス様がご自身の体を神殿とし、復活を通してそれを証明されたということが、サドカイ派にとって最大の脅威でした。そして、キリストにつながる人々もまた、聖霊の神殿とされることにより、ますます、石の神殿を通さずに神と交わることが可能となりました。その神とは、もちろんイエス様の天の父です。
このようにして、イエス様は、律法(戒律)・組織や神殿・儀式によらず、神と人の交わりが可能となる道を開きました。これが福音です。ですから、福音に、パリサイ派やサドカイ派の教えが侵入することは、福音の本質を損なうことになるのです。気をつけなければならないのは、律法や儀式、すなわち「宗教」そのものが悪いというわけではないことです。それらは、社会的・文化的なものであり、人が集まる所には、何らかの形で存在しています。
しかし、その「宗教」が福音を侵略するようなことがあってはなりません。福音とは、そのような「宗教」によらなくても、聖霊によって神と交わることができるという、喜びの知らせだからです。
<考察>
1.クリスチャンにとって気を付けるべき「パン種」は何でしょう?
2.「組織」「場所(神殿)」「戒律」「教祖(絶対的指導者)」などに人が惹かれるのは何故でしょう?
3.「聖霊による交わり」にとどまるためには、何が大切でしょう?