礼拝メッセージ要約
2021年10月10日
マタイ福音書16章1節から4 節
「天からのしるし」
16:1パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
16:2しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、
16:3朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
16:4悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。
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宗教家たちは、これまでも執拗にイエス様を試そうとしてきました。前回はきよめと汚れについてでした。イエス様の反応は、律法を無視しているかのように見えました。宗教家たちにすれば、それはモーセの権威を認めないことにつながります。そこで、イエス様がモーセ以上であることを証明する「しるし」(天からのしるし)を求めたのです。すでに12章で同様の内容を読みましたが、改めて、この箇所を前後ふたつの部分に分けて学んでいきます。前半は、時のしるしを見分けることについてで、後半は「ヨナのしるし」についてです。
前半でイエス様は宗教家たちに向かって、空模様は見分けられるのに「時のしるし」は見分けられないのかと言われました。「空模様」は、現代では気象予報ですが、これは科学の分野になっています。ノーベル賞を受賞した地球温暖化の予測モデル研究も、温暖化予測は「占い」ではなく「科学」だというのが受賞理由のひとつだそうです。もちろん科学は日進月歩であり、これで絶対ということはありません。コロナ流行の予測も全くと言ってよい程できていません。その意味では、「空模様」の見分け方すら本当には分かっていないのですが、それでも、限られた範囲ではありつつ、私たちは、できるだけ科学的な方法で物事を予測しながら生活しています。そして、今回の第一のポイントは、そのような科学的な方法では、たとえ、どれ程進歩を続けたとしても、「時のしるし」を見分けることはできないということです。科学(特に自然科学)は、自然界の法則を見出し、数式などの形式で法則を表現するものです。法則があるとは、反復性があるということですから、一度限りの特殊な出来事は対象外になります。「時のしるし」も、そのような「特殊」な出来事です。そして、それは歴史の中で起こることですから、当然「歴史」をどのように理解するかということが重要になります。ユダヤ教、キリスト教が歴史的な宗教だと言われる所以です。
ユダヤの宗教家たちは、モーセを上回るメシヤは、奇跡(霊的な力)、イスラエルの復興(歴史的な業績)、そして自然界の回復という祝福をもたらすと考えていたようです。要するに「終末」「新天地」の到来ということです。そうなれば、律法の一新もあり得るという判断です。これらのことは、聖書から来ていますから、彼らの判断(そして今日に至るまでユダヤ教世界の判断)も理解できないことはありません。この観点で見ると、イエス様の霊能力については、宗教家たちも認めざる負えない状態でしたが、しかしそれは、悪霊の頭による能力だと断じていました。奇跡の中には、自然現象をコントロールしているかのようなものもありましたが、自然界全体のこととなると未知数のことがらでした。歴史・政治的には、実力行使によるローマからの解放という方向性は見いだせませんでした。ですから、結局問題となっているのは、「終末」「新天地」とは何なのかということで、その答え次第で、イエス様をメシヤと認めるかどうかが決まってくるのです。「時のしるし」とは、この終末のしるしという意味も持っています。
「福音」の世界でも、上記の三つの要素(霊、歴史、自然)は語られています。パウロの宣教でも、テサロニケの手紙等から分かるように、その初期では、ユダヤ本流の終末観がかなり強く共有されています。三つの要素がすべて同時に起こるとは考えられていませんでしたが、比較的短期間の内に成就することが期待されていました。しかし、そうならなかったことは既に、ルカ福音書やエペソ書などが書かれた時代には認識されていました。そこで、あらためて「時のしるし」を見分けるということが重要になったのです。今日も、さまざまな「自称預言者」が、世の中の出来事を指し示して、「今がその時(終末)だ」と語っていますが、単に出来事と聖書の特定の記述を結び合わせただけでは、時を見分けたことにはならないので注意が必要です。イエス様によれば、「悪い、姦淫の時代はしるしを求める」のです。前述の三つの要素も、考えてみれば、時を見分けるというよりも、それらの出来事が起こった後から、メシヤが本物だったと判断するだけで、いわば結果論でしかありません。
そうではあっても、やはり、メシヤが本物かどうかを事前に見分けるために、何らかのしるしを求めることは必要ではないのでしょうか。ただ、言葉だけを信じろというのも無謀な話です。これに対してイエス様は、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」と言われました。「ヨナのしるし」とは、大きな魚に飲み込まれ、3日目に吐き出され生還したヨナの出来事が、イエス様の復活の予兆であるということです(12章で明確に語られています)。単純に言えば、復活が、イエス様がメシヤであることのしるしだということです。使徒パウロは、イエス様は「死者の中からの復活により、公に神の御子として示された」と書いています。死者の復活も、ユダヤ教的な「終末」の出来事の一つですから、それ自体は不思議な主張ではありません。しかし、キリストの復活は、彼らにとって、つまずきとなるものでした。なぜなら、死者の復活は、義人の復活でなければならないからです。終末において、義人が復活し、復興したイスラエルに住むというのが、彼らの希望なのです。
ところが、イエス様は、彼らから見れば、義人ではなく処刑された犯罪者です。その彼が復活し、天におられるということは、とうてい受け入れられないことでした。逆に言えば、復活とは、イエス様が義であるということです。その義なるお方が十字架刑で死なれたのは、彼自身の罪ではなく、私たちの罪のためであったというのが福音です。「私たちの罪のため」というのは、ただ身代わりになられたという事ではありません。キリストにつながる者は、自分自身がすでに処刑されたという意味です。クリスチャンとは、キリストにつながって、死刑執行された犯罪者であるということです。(ですから、クリスチャンには、自身を正当化や美化する要素は全くありません)。そして、復活されたキリストと共に今、新しく生きているのです。復活信仰は、自身の決定的な罪を認めることと一体ですから、それは、十字架信仰と同じことなのです。
このように、福音の語る「終末」とは、この世(私たちひとりひとり)の罪が裁かれたという意味です。もし、イエスがキリスト(メシヤ)である証拠を示せと言われたら、ただ、赦された罪人である自分を指し示すしかありません。それが、キリストの復活の証拠です。もちろん、世の人は満足しないでしょう。もっと目に見える証拠を見せろと、当時の宗教家たちと同じことを言うでしょう。しかし、罪の赦しを必要とし、新しい人生を歩みたい者は、そのような無益な議論ではなく、主の名を呼び求め、恵みによって救われる道を歩むのです。
<考察>
1.「しるし」は科学では捉えられないにもかかわらず、科学が大切なのは何故でしょう?
2.メシヤの資格を問う今回の話は、そもそもメシヤ信仰のない一般の日本人にどんな意味があるでしょう?
3.自分がすでに裁かれたという認識はあるでしょうか?