礼拝メッセージ要約
2021年10月3日
マタイ福音書15章21節から28 節
「異邦人の信仰」
15:21それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
15:25しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
15:26すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
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今回は、カナンの女(マルコによるとギリシャ人)の信仰として知られている箇所です。イエス様一行が、異邦人(非ユダヤ人)の多く住む地方に行かれていた時の出来事です。異邦人の女性が悪霊に憑かれた娘を癒して欲しいとイエス様に必死に願ったのに、イエス様は、ご自分の働きはユダヤ人のためのものだと言って答えませんでした。しかし女性の主張(異邦人でもユダヤ人向けの祝福のおこぼれはいただける)を聞いたイエス様は、女性の信仰を褒め、娘を癒されたという話です。イエス様ともあろうお方が、一旦異邦人を拒否されたのはなぜかという疑問がわく出来事です。(同類のケースとして、「百人隊長のしもべの癒し」もあります)。この問題を二つの視点で見る必要があります。第一は、歴史的な特殊事情という視点、第二は、普遍的な福音の視点です。
第一の歴史的事情というのは、ユダヤ人と異邦人の役割という、聖書に一貫して流れているテーマです。流れはこうです。
@ 神は、諸国の民の中から、祭司の民としてユダヤ人を選ばれました。
A しかし、彼らは使命を十分に果たせず、キリストを受け入れませんでした。(福音書はここまでです)。
B その後、福音は主に異邦人に伝えられました。(使徒の働き、パウロ等の手紙から今日まで)。
C やがてユダヤ人も福音を受け入れ、ユダヤ人と異邦人は「新しいひとりの人」となります。(現在進行中で将来に完成します)。
今回の箇所はAですから、イエス様の言動は当然ではありますが、素朴な質問として、そもそも神はまずユダヤ人を選ぶという、ややこしい事(そして、上記のような展開)をされたのかという疑問がでてきます。しかし、その問いは、さらに、神はなぜ多様な存在を造り、しかも、それは、しばしば不公平に見えるのかという疑問につながります。世界にひとつだけの花という歌もありますが、みな夫々違いながらも大切だというメッセージが、単に綺麗ごとにしか響かないほど、この世は不条理に満ちているのではないでしょうか。そこに、神の選びという要素が加わると、ますます理解が困難になり、最後には、「神の決めたことだから、信じるだけだろう」という、信仰とも投げやりともつかない態度で終わりがちです。
ユダヤ人の話に戻ります。私たち異邦人としては、ユダヤ人が選民だということを羨ましく感じるかもしれません。しかし、ユダヤ人にとっては、選ばれたことで苦難を背負ったことにもなります。その使命・役割は厳しく、重荷といっても良いものです。ですから、「選び」という言葉のニュアンスに引っ張られないことが必要です。とにかく、ユダヤ人には祭司としての使命が与えられました。祭司には、諸国の民のために祈り、神のことばを保持する責任があります。それが「神の民」の使命です。「天の大祭司であり王」であるイエス様は、この祭司である民、ご自身の国に来られました。イエス様のなされた様々な「力ある業」は、王がご自身の民を慰めるためになされたものです。そして、その教えは、この国の真のあり方を示すものでした。以上が、イエス様の来られた第一の目的ですから、カナンの女の時(異邦人の時)はまだ来ていませんでした。
しかし、イエス様は、時に先んじて、いわば、あたかもフライングをしたかのように彼女に答えました。それは、本来ユダヤ人は諸国民を祝福すべき祭司だからです。そして、諸国民への祝福は、ユダヤ人の場合と同様、ただ信仰を通して恵みによって与えられるものなのです。ここで問題となるのは「信仰」の中身です。「百人隊長」の場合は、キリストの権威ある言葉への信頼でした。カナンの女の場合は、異邦人の立場(選民ではないこと、すなわち、癒しをいただく立場にはないこと)を認めた上で、それを乗り越える「恵み」への信頼です。このように、「信仰」の中身は一律に決まるものではありませんが、いずれにしても、キリストの所に留まり続ける姿勢を表しています。神の主権と恵みの中に自分を委ねることが「信仰」なのです。
このことから、第二の視点、普遍的な事柄に明らかになります。ユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、つまり、全ての人にとって必要なものは、以上に述べたような「信仰」すなわち、神の主権とキリストにある恵みの中に生きるということです。神の主権(神の国)は全ての前提です。主権のない神は神ではありません。その神が「恵み」の神であり、その恵みを体現したお方がキリストです。この世界に身を置くことが信仰です。「選び」は選ばれなかった者にとってばかりでなく、選ばれた者にとっても試練となるものであり、あらゆる「違い」は個性、多様性で済ますにはあまりにも不条理に満ちていますが、それでも、神の主権は変わりません。確かに神の考えは人智を超えています。しかしそれは、「なるようにしかならない」という「運命論」ではありません。神は、その主権のもとで、限りない恵みを施されるお方です。
「主は慈しみ深く、憐みに富む」というのは、旧約の時代から言われてきました。そして、それはイエス・キリストというお方によって血となり肉となったのです。ヨハネ福音書に、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」とある通りです。不条理、不平等に満ちた社会、多様性を尊ぶ価値観と秩序第一の価値観の対立、世俗主義の宗教の対立など、およそ人間の知恵と力ではどうにもならないような事がたくさんあります。それでも、そのような問題の背後に、なお神の主権を見、それらの問題が、神の恵みが現われるための舞台となることを期待することが、私たちに望まれる信仰です。そして、その恵みが溢れることによって、世界の差別、不条理も、実質的に克服されていくのです。
<考察>
1.カナンの女は異邦人でありながら、イエス様を「ダビデの子」と呼んだのは何故でしょう?
2.異邦人は「犬」と呼ばれ見下されていたのに、イエス様の話では「子犬」となっているのは何故でしょう?
3.「あきらめずに願い続けること」の功罪について考えてみましょう。