礼拝メッセージ要約
2021年9月26日
マタイ福音書15章1節から20 節(抜粋)
「汚れ」
15:1そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。 15:2「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」 15:3そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
15:10イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 15:11口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
15:15そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」 15:16イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。 15:17口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。 15:18しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。 15:19悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。 15:20これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
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エルサレムからやってきた律法学者たちは、おそらく中央の宗教権威から派遣され、イエス様の活動を監視し、場合によっては告発するためにイエス様に近づいたと思われます。彼らの追求はまず、イエス様の弟子たちが、「言い伝え」に背いて、(きよめの)手洗いをせずに食事をしていることに対してでした。
「言い伝え」と呼ばれているのは、律法の規定を具体的に守るための口伝の教えのことで、「歩み」という意味の言葉です。モーセ律法は憲法のように絶対的な基準ですが、それだけでは具体的なことが分からない部分も多いため、細則が決められ、言い伝えられてきました。イエス様の時代には、その細則も律法自体と同じ権威が与えられていました。ですから、言い伝えを守らないというのは、律法を無視しているのと同様にみなされたのです。
今回問題とされているのは、「汚れ(けがれ)」についての言い伝えです。律法では、様々なものや事柄が「汚れている」とされており、汚れた時の「きよめ方」についても記されています。律法学者たちはさらに進んで、汚れたものに触れた場合や、触れた可能性がある場合の対処方法まで規定しました。手は汚れたものに触れることが多いので、まず清めてから食事をすることとなっていました。また、市場等の汚れが多い場所に行った場合、念のため全身を水で清めることも行われていました。今日の感染症と似ていて、汚れは触れることによって「感染」すると考えられていたため、それを防止する規則が設けられていたのも理解できます。イエス様の弟子たちが規則を守らなかったのは、律法違反と等しいのかというのが第一の問題です。第二の問題は、汚れとは、そもそも何なのかという根本的なことがらです。この二つの問題は関連していますが、一つずつ見ていきましょう。
第一の問題は、律法学者たちの言う「言い伝え」は律法と同じ権威があるのかということです。イエス様の結論は明確で、同じではないということです。それどころか、言い伝えの中には、そもそも律法の精神を台無しにするものもあるというのです。今回の個所に「コルバン」(ささげものとして取り分けられたもの)の規定によって、親を敬えという十戒の一つを台無しにする事例があげられていますが、似たような例は他にもたくさんあると言われています。
今日でも同様な事例が見られます。キリスト教を名乗りながら、聖書の他に、聖書と同等の権威がある聖典を持つ宗教があります。また、そこまで明確な文書はなくても、宗教指導者の発言が絶対的な権威を持ってしまう事例もあります。これらは、表向きは聖書の教えを具体化していると称しながら、実際は、自分たちの意見を権威づけるために聖書を引用しているだけなのです。
とは言え、このことはもちろん、聖書を時代や文化の文脈の中で解釈していくことを否定しません。
聖書のことばは生きているので、常に新しい光を与えてくれます。しかし、解釈はあくまで解釈であり、絶対化することは許されません。多様な解釈を認めることが大切です。同時に、その解釈は結局、福音なのかということが絶えず問われます。例えば、食前に清めの手洗いをすること、あるいは逆にしないことが福音なのかということが肝心なのです。
そして第二の問題です。そもそも福音の光の中で、汚れとは何なのかということです。聖書(律法)には、明らかに「きよい」ものと汚れたものの区別があります。律法学者によれば、あるものが何故きよい(あるいは汚れている)のかを問うことは無意味です。聖書にそう書いてある(神がそう言われた)からそうなのだ。守るか守らないかだけが重要なのだということになります。(もちろん喜んで守ることが大切ですが)。地上の人間には神の心など知りようがないと割り切るならば妥当な考えでしょう。しかし、天から来られた方(キリスト)は違います。律法の規定(例えば食物規定)は、より深いことを教えるためのものだということをご存知なのです。文字の背後にある神の心のことです。それは、律法の文字だけを研究していて分かるものではありません。
律法学者の考える汚れは、ウイルスのように外から感染するものです。それには触れないこと、もし触れたら早く洗い流すことが求められます。しかし、ウイルスは実在している「物」ですが、汚れはそうではありません。例えば、豚が汚れていると言っても、豚が霊的なウイルスに感染しているという話ではないのです。また、汚れは聖さ(きよさ)の反対であり、聖いのは神に近く、汚れは神から遠いという見方もあります。そうすると、たとえば豚は神から遠い動物だということになります。イエス様は、そのような考えはナンセンスだと言われます。豚も神の創造物だからです。神に近いとか神から離れているというのは、あくまで人間の霊的な状態の話です。それは、心から何が出てくるのかによって判別できます。汚れは、ウイルス感染よりも、全身の不健康な状態に例えられるでしょう。
心から出るものが人を汚すとありますが、聖書の「心」とは、いわゆる心情(気持ち)よりも、その人を動かすもの、意図などを表す言葉です。その人の方向性とも言えるでしょう。もし汚れをきよめようとするなら、心をどうにかしなければならないのです。律法学者は言うでしょう。規則を喜んで守ることが「きよい」心なのだと。もっともに聞こえますが論より証拠です。彼らの心から何が出てきているでしょうか。筋金入りの律法主義者であったパウロは、このことを身をもって証ししています。もちろん彼は姦淫などの罪は犯さなかったでしょうが、より深刻な罪、自己義認の罪に陥っていることに気が付かされたからこそ、罪人を救う福音に与ることができました。ですから、手を洗う、洗わないという問題も、この深刻な罪との関連で見なければならないのです。結論として、手を洗わず食べても汚れるわけではありません。そればかりか、マルコ福音書によれば、イエス様はすべての食べ物を「きよい」と宣言され、「律法の下にいない福音」という、大胆な道を開かれました。パウロもすさまじい迫害の中で、この道を歩んでいくことになります。
<考察>
1.律法学者たちが、イエス様本人ではなく弟子たちの行動を問題にしたのは何故でしょう?
2.「すべての食物はきよい」とすると、人は無制限に何でも食べられることになるのでしょうか?
3.心にあるものは、どのようにして口からでてくるでしょうか?