礼拝メッセージ要約

2021919

マタイ福音書1422節から34

「湖上のキリスト」

 

14:22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。 14:23群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。 

14:24しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。

14:25すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。 

14:26弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。 14:27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 

14:28すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」 14:29イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。 

14:30ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。 

14:31そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」 14:32そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。 

14:33そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。

14:34彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。

 

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「五千人の給食」に続いて「水上歩行」という、超自然的な奇跡が語られています。今回も、解析不能な現象にこだわらず、語りかけ自体に耳を傾けていきましょう。マタイ福音書8章で、舟に乗った弟子たちが大暴風で沈没の危機にあった出来事が語られています。その時は、イエス様も同乗されていたものの眠っておられたので、弟子たちはイエス様を起こし、大暴風を静めていただきました。その時との比較をしつつ読んでいきます。

 

今回イエス様は弟子たちだけを舟に乗らせ送りだしました。後から行く予定でしたが、しばらくの間ひとりで祈っておられました。前回は、弟子たちのそばで眠っておられたイエス様、今回は遠くで祈っておられるイエス様です。どちらも、当時の弟子たちだけでなく、今日の私たちも経験するところですが、ニュアンスの違いがあります。前者の場合、「イエス様、あなたが共におられるのは知っていますが、この困難な状況で、どうして助けてくれないのですか?」というような叫びになるでしょう。後者の場合、「イエス様、いったいどこで何をしておられるのですか?」となるかもしれません。一見後者の方が深刻なようにも見えますが、必ずしもそうとは言えません。

 

キリストと教会は結婚関係(厳密に言えば、まだ婚約期間)に例えられますが、人間社会の場合で言えば、一緒にいるのに口も利かないケースと、全然会ってもくれないケースの比較のようなもので、どちらも深刻な危機の状態にあると言えます。ただし、福音書の場合、深刻な危機にあるのは弟子たちだけであって、イエス様の側ではないというところがポイントです。イエス様は、ご自身の方から弟子たちを切り離すことは絶対にありません。しかし、私たち人間には、なかなかそれを実感できないものです。不信仰と言ってしまえばそれまでですが、これは、いわゆる「信念の強さ」の問題というよりも認識の根本的な違いです。同じ事柄でも見方が180度異なるのです。ですから、私たちに必要なのは、自分自身の弱さと戦うことではなく「考え方の転換」です。すなわち、「メタノイア」いわゆる「悔い改め」ということです。自分を基準にせず、神の計画を基準にするのです。神の基準とは、キリスト・イエスにあって「神は救い」であり、その救いとは、ただ恵みにより罪人を赦し解放するということです。

 

とは言え、「悔い改め」がそのようなものだとすると、現実には難しい面があります。いくら「恐れるな」と言われても、人間は自分を守るための本能として、危険を恐れ、不確実な状況で疑いを持つのですから。もちろん世の中には、そのような「生理的な傾向」(聖書で言う「肉」)を抑制するための方法や、滅却さえ目指す宗教もあります。しかし、必要なのは、「肉」の取り扱い自体ではなく、肉は肉としてありながら、「霊」によって歩むということです。つまり、すべては聖霊の働きによるのです。「悔い改め」「イエスを主と告白する」など、肝心なことは、人の能力ではできず、ただ聖霊によって実現されます。と言うのは、聖霊だけが神の思いを知っておられるからです。「福音によれば、神のお考えはこうだ」と知っていても、それは一般論として知っているだけですから、湖上のペテロのように一歩踏み出すことはできません。ペテロの場合、「来なさい」という個別のことばがありました。今日も、ただ聖霊によって神の意志が明らかにされ、私たちはそれによって自分の認識を改めていくのです。

 

もうひとつのポイントは、弟子たちを真に恐れさせたのは、自然現象ではなく、湖上をイエス様が歩いているという超自然現象でした。もちろん、それがイエス様でなくてだれであっても、幽霊を見たのかと恐れるでしょう。それだけの話であれば、ファンタジーかミステリーであり、たいした意味はありません。ポイントは、「キリスト」がまるで幽霊の様に現れたということです。これは復活のキリストが現れた時と同様です。もちろん幽霊ではないのですが、「霊なるキリスト」の体験は、ある種の恐怖をもたらすことがあるのです。御使いさえも恐ろしいのですから、「神の顕現」と呼ばれている事態がなおさらなのは当然です。恐れる弟子たちに向かってイエス様は「わたしだ」と言われました。ヨハネ福音書ではしばしば登場する「エゴ・エイミー」(わたしはある)という言葉で、神の顕現時に語られるものです。この言葉は、「恐れるな」という呼びかけと共に言われていますが、実は「エゴ・エイミー」の顕現こそが、本当の意味で恐れをもたらすのです。

 

「主を恐れることが知識の始め」ですが、問題は「恐れ」の中身です。神を恐れることと、その他のこと、すなわち大自然の偉大さや脅威、大天才の異常な能力、超常現象、あるいはいるかも知れない人類を超えた知的生命体などを恐れることとの根本的な違いです。単純に言えば、神と、単に人間の能力をはるかに超えた存在と何が違うのかということです。これは、聖霊と単なる霊(幽霊やいわゆる霊魂)と何が違うのかという問いと同じなのです。そして、それこそが、人間とはどういう存在なのかという問いにもなります。この一番根本的な問題に対して、福音書(特にヨハネ)と書簡(特にパウロ)は様々な角度から光を当てています。それがなければ、聖書は単なる古代人の宗教や倫理の教科書になってしまう危険があるのです。ですから、続けてこの問題について、特にヨハネとパウロから学んでいくことが必要です。そして、その先にあるのが、もっとも「恐れるべき」神の顕現が「恐れるな」という言葉となり、私たちの救いとなること、すなわち福音の現実化です。それは、単に「以前は怖がっていたものが怖くなくなった」ということ以上のことなのです。

                                                  

<考察>

1.並行箇所(マルコ6章、ヨハネ6章)と比較してみましょう。

2.ペテロがあのように言ったのはなぜでしょうか?

3.一歩踏み出したのに沈みそうになり、イエス様に助けていただいた経験はありますか?