礼拝メッセージ要約

2021912

マタイ福音書1413節から21

「五千人の給食」

 

14:13イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。 

14:14イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。 

14:15夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」 

14:16しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」 

14:17しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」 

14:18すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」 

14:19そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。 

14:20人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。 

14:21食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。

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五つのパンと二匹の魚をもとに五千人(男だけで)を満腹にさせた出来事については、4つの福音書すべてに記載されています。当時から広く知られていた印象的な出来事だったのでしょう。この「奇跡」については、古来、様々な解釈がされてきました。どのようなメカニズムでそのような事が可能になったのか憶測する人や、「奇跡」を心理学的に解釈して、わずかな物が差し出されたことがきっかけとなり、人々が自分のために隠していたものを差し出したのだと読む人もいます。あるいは、五つ、二つ、十二のかご、五千人などの数字に関心を持つ人もいます。いろいろな読み方が可能ですが、まずはテキスト全体の要点を見ていきましょう。

 

簡単にまとめると、イエス様が「寂しい所」で群衆を「あわれみ」、彼らを癒し、奇跡的に満腹にされたという出来事です。すぐに思い浮かぶのは、エジプトから解放されたユダヤの民が、荒野で神から与えられた「マナ」によって養われた歴史です。「寂しい所」は「人里離れた所」という意味の言葉ですが、旧約では、「神のことばを聞く場所」「地理的な意味での低地の草原」「乾いた地、荒野」の三つの言葉が相当します。昔ユダヤの民は40年間にわたり荒野で神のことばをモーセを通して聴き、神に養われました。同時にそれは、神への従順が試される場所でもありました。またイエス様ご自身の場合、公生涯を始めるにあたり、荒野で悪魔の誘惑を、神のことばをもって誘惑を退けられました。(誘惑に負けたユダヤの民と勝利したイエス様の対比に留意)。

 

このような背景を持つ「寂しい所」で今回の奇跡が行われたところが重要です。出エジプトを今回の奇跡の型としてみると、どちらも神のことばが語られています(マルコ福音書参照)。ただし、出エジプトでは、神の臨在は恐ろしく、ただモーセを通して間接的に語られましたが、イエス様は群衆をかわいそうに思い、彼らのただ中で癒しを行いつつ語られました。また、どちらも神がご自身の民を養ってくださいます。ただし、出エジプトのマナは、日々必要な分だけが与えられ、翌日にとっておくことはできませんでした。それに対して、今回はたくさんの余りが出るほど豊かに与えられました。

 

このように、この奇跡は過去の出来事をベースとしていますが、同時に、それ以上のこと、今後起こる出来事を指し示すものである所がポイントです。マルコ福音書では、食物を配るために、群衆を座らせたとありますが、ここに記されているの「座らせる」は食事のときの座り方です。また、イエス様がパンを裂いて配られたのは、最後の晩餐、そして後の主の晩餐(聖餐)を予告しています。非常に大勢の人による、主の食卓であり、将来の神の国における大祝宴も暗示しています。そして、もちろん、「裂かれたパン」はキリストのからだを象徴しています。ですから、イエス様がパンを配られるというのは、ご自身を人々に与えておられることの象徴なのです。実際ヨハネ福音書では、ご自身を天から下ったパンであると明言されています。そして、地上のパンが肉体の生命を維持するのに対して、キリストご自身の「からだ」は永遠のいのちを与えるのです。そのいのちは、溢れるほどに豊かであることを、この奇跡は暗示しています。

 

その上で、ここでは主食であるパンに添えて、副食である魚も登場するのが気になるところです。パンと魚という組み合わせと言えば、マタイ7章に「子どもがパンを欲しがっているのに石を与えるだろうか、魚を求めているのに蛇を与えるだろうか。悪い人間でも子供には良いものを与えるのだから、天の父はなおさら良いものを与えてくださる」という内容のことばがあります。この「良いもの」はルカ福音書では「聖霊」と明示されています。求める者に対して、天の父は聖霊を与えてくださると約束されているのです。イエス様が、ご自身のからだを「食べる」者は永遠のいのちを持つと言われた時、人々は「ひどい言葉だ」と言ってつまずきましたが、その時イエス様は、「いのちを与えるのは霊であり、肉は役に立たない」と言われました。キリストのからだとは、もちろん、イエス様の肉体そのもののことではなく、復活後に与えられる聖霊を指し示しています。その聖霊が永遠のいのちの源であり、私たちはそのいのちに満たされるのです。

 

さらに、復活されたイエス様が弟子たちに現れた時のことです。エマオではパンを裂いた時に弟子たちの目が開かれ、復活のキリストを認識しました。そして、キリストが道々聖書を解き明かされた時、弟子たちの心が燃えました。また、エルサレムでは焼いた魚を食べてから、聖書はすべて成就すると言われました。このように、パンや魚を食べることは、復活のキリストが聖書の成就であることを示す象徴的な意味を持っています。以上を整理すると、聖書〜復活〜聖霊ということです。逆に言うと、聖霊によって復活のキリストとつながり、神のことばが生きたものとなるということです。それが永遠のいのちに与ることによって現実になります。

 

「寂しい所」に集まった群衆は、この祝福の「前味」を味わったと言えるでしょう。彼らは満腹となり満足しましたが、そのような一時的な満足ではなく、永続する祝福に与るためには、聖霊を待たなければなりませんでした。聖霊が働かなければ何も始まらないというのは、今日も同じです。ただし、大切なことですが、「聖霊を体験する」というのは、いわゆる心霊現象のようなものというよりも(もちろん、超自然的な現象が伴うことはありますが)、神のことば、それも、復活のキリストを証しすることばとしての神のことばが、私たちの心を燃やし、満足させるものであるということです。聖霊とみことばは一体です。(因みに、あくまでひとつの解釈ですが、5つのパンをモーセ五書(律法)、2匹の魚を預言書と諸書、つまり旧約聖書全体と見る人もいます)。そして、それは「心の貧しい者(霊的貧困にある人)を満たし、私たちを永遠のいのちへと導くものなのです。

 

<考察>

1.イエス様は、なぜ「寂しい所」に退かれたのでしょう?

2.パンや魚を配った弟子たちは何を思ったでしょう?

3.満腹した群衆は何を思ったでしょう?