礼拝メッセージ要約

202195

マタイ福音書141節から12

「バプテスマのヨハネの死」

 

14:1そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、 14:2侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」 

14:3実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。 

14:4それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。 

14:5ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。 

14:6たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。 

14:7それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。 

14:8ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」

14:9王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。 

14:10彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 14:11そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。 

14:12それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。

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バプテスマのヨハネは、イエス様の宣教の要所に登場します。今回は、ヨハネの死に関しての箇所です。

ヨハネについてイエス様は最大限の評価をされていました。そのヨハネは領主ヘロデを批判したために捕らえられ殺されてしまいました。この箇所では、その死の場面が描かれていていますが、その「グロい」シーンは古くから注目され、西洋の美術、音楽、文学の題材としてしばしば取り上げられてきました。もちろん、聖書の記述だけではシンプルなので、作者たちは想像力を働かせて様々なフィクションを作り上げてきました。不法な結婚、母と娘の異常なつながり、権力者の優柔不断ぶり、残酷な死体の扱い等、人々が関心を寄せるのも無理ないストーリーではあります。

 

しかし、そのような罪深い人間模様の研究よりも、今回は冒頭の2節に焦点を当てて読みます。領主ヘロデは、イエス様の活躍を耳にすると、自分が殺したヨハネがよみがえってイエス様の中で働いているのだと解釈しました。そのように思った背景として殺害のシーンが回想されています。今回は回想シーンよりも、現在(その時点)のヘロデの言葉に注目します。

 

ヘロデの「ヨハネが死人の中からよみがえった」という表現で使われている「よみがえった」という言葉は、死人の中から起き上がったという意味です。「復活」の詳細についての議論を置いておくとして、「死人が起き上がる」というのは、強烈なイメージです。殺人者が被害者のイメージに苛まれるのは、ひとつには、抹消したはずのものが抹消できないことからくる恐怖心によるのでしょう。それは、結局、自分の罪が抹消できないことへの恐怖です。そのような恐怖に対しては三つの対応があります。第一はヘロデの方法で、自分を守ろうとして、さらに罪を重ねる道、第二は律法主義によって自己正当化する道、そして第三は、ただひれ伏して神の恵みにゆだねる道です。この時点でヘロデは(そして他の人も)神の恵みを知りませんでした。それは、キリストの復活を待たなければなりませんでした。「ヨハネがよみがえった」恐怖から解放されるのは、「キリストがよみがえった」ことを信じることによるのです。

 

「よみがえり」について一つの注意点があります。ヘロデの発した「ヨハネが死人の中からよみがえった」という言葉を基にして次のような主張をする人がいます。

「キリストが復活したというのは、墓が空になっていたというような話ではなく、キリストの持っていた癒しと解放のパワーが弟子たちの中で働いている事態を『キリストが死人の中からよみがえった』と表現したのだ」という主張です。この主張には聞くべき内容も含まれていますが、問題もあります。聞くべき内容というのは、キリストとその弟子が共通の働きをするという部分です。いくら2000年前の墓が空になったと語ったところで、タイムマシンがない以上、証明することはできません。また、空であっても、なぜそうなったのかは聖書の記述に頼る他はありません。そもそも、聖書の記述の信憑性自体が問題にされます。ですから、キリストが復活したと言っても、今日キリストが目には見えない以上、もしキリストの働きが現在でも続いていることが示されないのであれば、聖書の記述の信憑性の議論から抜け出ることができないのです。キリストが今も生きて働いておられることは、その弟子たちを通してキリストの働きが現れることによって示されるというのは本当であり大切なポイントです。

 

しかしだからと言って、「墓が空であったなどというのは、後付けのフィクションだ」というは正しくありません。弟子たちの活動如何にかかわらず、キリストご自身の復活は、それ自体が最重要事項です。キリストの復活と、弟子たちがキリストと同様の働きをしているということは区別しなければなりません。というのは、キリストの働きには、弟子たちが引き継ぐべき働きと、キリスト固有の働きがあるからです。引き継ぐ働きとは、癒しや解放の業であり、それと共に神の国を宣べ伝えることです。要するに、イエス様の地上の働きの中で十字架に至るまでの働きです。それに対して、キリスト固有の働きとは、言うまでもなく「十字架の死」です。十字架刑で命を落とした人は大勢いても、キリストの死は「神のひとり子の死」という特殊な死なのです。キリストが復活したというのは、十字架の死が特殊な死であったことの証です。その死によって、私たちすべての負債(すなわち罪)は帳消しにされました。神からの絶対的な「恩赦」が行われたのです。キリストが今も生きておられるのは、その赦しが時代を超えて有効であることの証明です。これは、弟子たちの行為や生死の如何にかかわらず変わらないことであり、福音の土台となっているのです。

 

ヨハネの死が記されているのは、ヨハネがイエス様の道を備える「先駆者」だからです。

権力者を恐れず神の道を説いたヨハネは、まさに預言者でした。そして、旧約の多くの預言者と同様、苦難の道を歩みました。伝統的に権力には世俗の権力と宗教権力があり、現代では両者は分離していた方が安全だという考えがあります。宗教政治に対して民主主義が主張される所以です。ただし、両者は一致しようが分離しようが堕落する時には堕落します。イスラエルはその生き証人です。そこで神は権力とは一線を画した預言者を建てられました。ヨハネはその一人であり、イエス様も人としてはその系譜にあります。ヨハネの死はイエス様の死の先駆けとなりました。ただし、ヨハネの水のバプテスマが、イエス様の聖霊のバプテスマに進んだように、ヨハネの預言者としての死は、イエス様のメシヤとしての贖罪死へと進んでいきました。そのような大きな神の摂理の中で、私たちは生かされているのです。

 

<考察>

1.ヨハネ殺害の経緯が記録されているのはなぜでしょう?

2.キリストの復活の意味について確認しましょう。

3.いわゆる「予言者」と聖書の「預言者」の違いについて整理してみましょう。