礼拝メッセージ要約

2021829

マタイ福音書1331節から58 節(抜粋)

「隠れた宝のたとえ」

 

13:31イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、 

13:32どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

13:33イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

 

13:44天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

13:45また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。 

13:46すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

13:47また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。 

13:48網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。 

13:49この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、 

13:50火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

13:51あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。 

13:52そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

 

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「毒麦のたとえ」とセットで、ふたつのたとえが語られているので、まずそこを押さえておきましょう。「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」です。どちらも、非常に小さな始まりが、非常に大きな結果をもたらすという内容です。天の御国のたとえとして語られているのですから、素直に読めば、御国は今は小さく見えるけれども、やがて大きく成長するのだという話になります。これは、もちろん事実ですし、困難な状況の中でも希望を失うなというメッセージとして受け取れます。ただ、ここに不思議なことがあります。大きな木のイメージは、旧約聖書では、多くの国々を支配する巨大帝国を指しています(エゼキエル31章、ダニエル4章)。黙示録でも、大バビロン(悪魔の帝国)は汚れた鳥の巣窟という表現があります。パン種にしても、通常それは罪の代名詞として使われています。要するに、どちらのたとえも、良いイメージがないのです。やはり「たとえ」は謎を秘めています。ですから、「毒麦のたとえ」同様、天の御国のたとえとは言え、そこには「毒」も未だ混じっていて、すさまじい勢いで成長し続けていると解釈することもできます。(木やパン種自体に二面性があると理解することも可能です)。いずれにしても、「たとえ」は、群衆にはさとることができない奥義であり、耳のある者は聞けといわれているものなのです。

 

この、一見単純に見えながら不思議な内容を持った「たとえ」に続くのが、宝と真珠のたとえです。どちらも一見単純な話です。最初は隠れていた大切な物を発見した人が、財産をはたいてそれを手に入れたということです。逆に言うと、全財産を投入しても惜しくないほど貴重なものを発見したということです。このようなことは、頻繁ではないものの、世間で見かけることができるものです。今話題にのぼることの多いアスリートを始め、すべて他のものを犠牲にしてでも一つのことに打ち込む姿は、人々の注目を集めます。ただし、この「畑に隠された宝のたとえ」での宝物は、あくまでも隠れていたものですから、よほどマイナーな競技でない限り、アスリートは実例としてはふさわしくないかもしれません。もしこの「たとえ」が、他のだれも知らない宝についての話だとすると、さらに話は変わってしまいます。(ただし、真珠のたとえでは「隠れた」という要素は記されていないので、一般的な宝探しの話として読むこともできます)。

 

いずれにしても、これらの「たとえ」を、全財産を投じる価値がある宝さがしという観点で読む場合、ではその宝は何なのかが問題となります。一般的な答えは「キリスト」あるいは「福音」ということでしょう。イエス様は弟子たちに向かって、一切を後ろに置いてついて来なさいと語られましたし、使徒パウロも、キリストを知るすばらしさのゆえに、(他の)一切のことを損と思うと言っています。このことは、もちろん事実で大切なことです。ここでのポイントは、キリストや福音をどれだけ大切に思っているかということになります。アスリートの金メダルへの思い以上のものがあるのかということは、確かに一人一人自問することが大切とは言えます。

 

ただし、この「たとえ」の焦点は別の所にあるようにも見えます。というのは、天の御国は、宝さがしをしている人のようだとなっていて、神の支配を「人」で例えているのがポイントです。単純化すれば、宝さがしが神の支配だということです。主語は人ではなく神なのです。すると、神が見つけた宝は何なのかということになります。聖書には、神は諸国の民の中からイスラエルを選んで、ご自分の宝とされたという記述が数カ所あります

(出エジプト195節など)。そして彼らを「高価で尊い」と言われました。もちろんそれは、彼らが優れていたからではなく、ただ神の恵みの選びによるものでした。そして、その宝のために、すべての持ち物どころか、ひとり子さえ惜しみなく下さったのです。

 

それでは「真珠」は何でしょうか。もちろん「宝」の一例でもありますが、より具体的には、黙示録2121節にある、天のエルサレムの真珠でできた12の門を連想させます。天のエルサレムは神の民を表していて、「12」は12部族や12使徒を象徴しています。ですから、真珠は神の民、あるいは「教会」をイメージしているとも言えます。そうすると、このふたつの「たとえ」は、神あるいはキリストが、イスラエルあるいは教会を見出す、それも、あらゆる代価を払ってご自身のものとされる姿が描かれていることになります。人ではなく神が主語であることは、続く「地引き網のたとえ」の場合もそうなので、一貫した見方と言えるでしょう。これらの「たとえ」は、弟子たちに向かって語られていますから、神の無条件の選びと恵み、そして何物も惜しまぬ愛を暗示しているのです。

 

弟子たちは、これらのたとえが分かったと返事していますが、もちろん真に理解するのは後に聖霊がくだってからのことになります。その暁には、弟子たちは「一家の主人のように」なります。「新しいもの」「古いもの」を取り出すという箇所を新約・旧約に精通するというように解釈することもありますが、「あらゆるもの」と同義

で、主人を強調していると読むほうが自然でしょう。弟子たちは、聖霊によって単なる学者になるのではなく、ペテロの表現によれば、「王なる祭司」「神の所有とされた民」とされます。ただし、それは、この世の「主人」とは正反対で、神のしもべとして、人々に仕える者となるのです。

 

<考察>

1.「神の国」は、なぜ最初は見えないほど小さいのでしょうか?

2.良いものを所有するといいますが、所有欲は悪いものではないでしょうか?

3.「悪いものは捨てる」という表現に抵抗感を持ちませんか?