礼拝メッセージ要約

2021822

マタイ福音書1324節から43 節(抜粋)

「毒麦のたとえ」

 

13:24イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。

「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 

13:25ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 

13:26麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現われた。 

13:27それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 

13:28主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

13:29だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 

13:30だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

 

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「種まきのたとえ」に続いてイエス様は「毒麦のたとえ」を語られました。このたとえについても、後で寓喩的な説明が加えられています。それによると、畑は世界、種をまく人がメシヤ、種が神のことば、麦は御国の子ら、対して、毒麦は悪い者(悪魔)の子らのこと。麦の毒麦はまぎらわしく、一緒に成長するが、時が来れば違いは明らかになり、麦は収穫され輝き、毒麦は裁かれ廃棄されるというものです。話自体は明快ですが、これも「たとえ」(パラブル)なので、寓喩の説明を理解しただけでは「悟った」ことにはなりません。とは言え、まずは、分かりやすい寓喩の説明から読んでいきましょう。

 

この説明は、たとえの中で、しもべが主人に「良い麦を蒔いたのに、なぜ毒麦が出たのか」と質問したことへの答えとなっています。主人(メシヤ)は良い麦を蒔いたのだが、敵(悪魔)が毒麦を蒔いたので、現在は両者が混在しているのだ。しかし、それは永遠には続かないということです。収穫の時に御使いが登場することや、義とされた者たちが輝くという部分は、ダニエル書12章の「終末預言」のイメージが踏襲されています。このこと自体は、イエス様以前からの話で、いわゆる「神義論」、つまり、神が善なのに、なぜ世界には悪があるのかという問いについての、伝統的な聖書の議論となります。これは、もちろん単なる哲学の議論ではなく、なぜ、良い人が苦しむのかという問いにつながっていき、罪や苦しみという、万人に関わる深い問題に発展します。

 

この寓喩の説明自体は、キリスト教の伝統的な説明の仕方で表現すると、「限りなく善悪二元論に近づきながら、二元論にはならず、一元論にとどまる」ということです。善悪二元論というのは、世界には善と悪が同等のリアリティを持って存在していて、両者がせめぎ合っているという考えです。世界をながめると、そう感じることも多い考えです。対して、一元論とは、神(善)が究極であって、悪は劣るものだということです。ホロコーストのような究極の場所にあってさえ、「神は善」であり、やがて神は悪を裁かれると告白する立場です。ただ、悪は劣るといっても、「悪はただ、善が欠けた存在だ」というような生易しいことではなく、悪もまたリアルに実在しているというのが、この「毒麦のたとえ」の場合であって、現状では(終末までは)悪が無くなるということはないという意味で、一時的には二元論に近いものです。しかし、究極的(終末)には善が勝つので、「終末的一元論」と呼べるでしょう。

 

これは、もちろん机上の神学論争ではなく、どんな状況でも神への信頼を持ち続けるという、信仰の土台ですから、とても重要なことであって、その信仰さえあれば、前進し続けることが可能であり、それが無ければ、いずれ、この世の不条理に押し潰されてしまう、根本の根本です。それを踏まえた上で、あらためてこの「たとえ」を読むと、すぐに気づくのは、「麦と毒麦の混在を許しているのは、間違えて一緒に抜いてはいけないからだ」という部分が、寓喩の説明にはないことです。これは不思議な話です。世の中に善と悪が共存しているのは、そもそも善と悪が区別できない程に似通っているからだということなのでしょうか。いわゆる「善悪相対論」(善と悪は立場によって変わるという見方)のようにも見えます。悪だと思ってもそうではないかもしれないから、早まって裁いてはいけないという教えなのかもしれません。しかし、聖書の中には、悪の芽は速やかに摘むべきだという教えもたくさんあります。やはり、「たとえ」は「謎」(奥義)を示しています。

 

この「たとえ」をマタイ福音書の文脈に戻すと、ひとつのことが見えてきます。もともとイエス様と弟子たちは、律法学者や祭司などの宗教家と対立していました。この状況下で、自分と「敵」の区別は明らかです。しかし、マタイ福音書は、もっと微妙な「敵」を扱っています。偽預言者とも呼ばれている人たちで、不法をなす者(無律法の意)と呼ばれています。彼らは、律法学者のような外部の「敵」ではなく、いわば内部の人たちです。つまり、一見イエス様の弟子のようでありながら、実はそうではない人がいるという状況です。彼らは、寓喩の説明で、「つまずきを与える者や不法を行う者」と呼ばれています。

 

この「つまずき」と「不法」を福音の光の中で理解するためには、使徒パウロの言葉が参考になります。福音とは、キリストにあって私たちは自由にされたということです。私たちは律法ではなく聖霊によって歩むのです。ただし、その自由は、悪をなす自由ではなく、愛をもって人に仕えることができる自由です。残念ながら、現実にはこの自由を悪用する人たちがいます。もちろん、信仰があるのだから、悪事を行っても赦されると居直る人もいるでしょうが、そのような人を、あえて麦と紛らわしい毒麦とは呼ばないでしょう。問題なのは、本当に紛らわしいケースです。使徒パウロは、一つの具体例として、「偶像にささげられた肉」を食べても良いのかという問題を扱っています。律法ではもちろんだめです。しかし、キリストにある自由の中では、神に感謝して食べるのは自由なのです。ただし、そのような自由を行使したために、それを見ていた「弱い人」(まだ自由を体験的に理解していない人)がつまずくようなことがあるのならば、自分は肉を食べないと言っています。「つまずかせない」という愛の配慮によって、自分の自由をコントロールするということです。そもそも、コントロールできるから、その自由は本物なのです。つまずきを与える者とは、この自由が本物ではない人のことです。

 

ですから、このたとえの核心は、キリストの自由の中にいると主張する人たちの中で、その自由が本物なのか、それとも、自由の名のもとの不法なのかという問題です。これは、見た目で判断できるようなことではなく、真に聖霊の導きによらなければわからないことです。ですから、私たちは、他人に関しては早まって裁くことはできません。自分自身についてでさえ、人間的な判断ではなく、聖霊の知恵がなければ分かりません。しかも、この微妙な問題こそが、将来決定的な差をもたらすのです。これはもちろん、私たちを恐れさせるためではなく、自分の力に頼らず、キリストの恵みの中に留まるようにとの勧めであり招きなのです。

 

<考察>

1.「悪とは、ただ人を不快にする事柄だ」という主張についてどう思いますか?

2.「自分は毒麦なのではないか」と感じている人に対して、どう語りますか?

3.「自由と民主主義」という言葉について、どう思いますか?