礼拝メッセージ要約

2021815

マタイ福音書131節から23節(抜粋)

「種まきのたとえ」

 

13:1その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。 

13:2すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。 

13:3イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9耳のある者は聞きなさい。」

 

13:16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 

13:17まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。

        *******************************

 

この章には、いくつかの「たとえ」が記されています。イエス様の特徴的な話し方として「たとえ」があげられます。天の御国(神の支配)は、この世の物質的なものを超えていますから、通常の言葉で直接描写することはできません。どうしても「たとえ」で語るしかありません。神が形ある偶像でない以上、これは必然です。

ただし、イエス様が「たとえ」で語られるのには、別の理由もあります。それは、同じ話を聞いても「悟る人」と「悟らない人」がいることと関係しています。

 

まず「たとえ」とは何なのかを確認しましょう。たとえ(比喩)には色々な種類があります。直喩は「象のように大きい」(象=大きい)という種類の比喩です。暗喩は「人生は旅だ」のように、比喩であるとは明示しないタイプです。その他、擬人法や誇張法などもあります。イエス様が語られる「たとえ」(パラブル)は、直訳すると「傍らに投じる」というような意味の言葉で、元来、短い物語で普遍的な真理を表すものです。通常、大切なのは一つのポイントであって、物語に登場するアイテム一つ一つの意味を解釈する「寓喩」とは異なります。ただし、「たとえ」を寓喩的(アレゴリカル)に解釈することは、広く行われています。今回の個所にも、その例を見ることができます。

 

この「種まきのたとえ」の物語は単純です。同じ種を撒いても、実を結ばない場合(悪い地)もあれば、多くの収穫をもたらす場合(良い地)もあるという話で、それ自体は普通の話です。悪い地の具体例が3つ挙げられていて、それも普通の事ですが、イエス様ご自身が弟子たちに、寓喩的な説明を加えられています(悟らない人、困難でつまずいてしまう人、この世のことで忙しい人、等)。これも、言われてみれば納得できる内容です。そして、これらの実を結ばないケースについての分析も、よく行われています。しかし、ここで注意すべきことがあります。そもそも問題は、聞いても悟らない人(これを、仮に外部の人と呼ぶ)と、そうではなく悟る人(仮に内部の人と呼ぶ)がいるということでした。ポイントは寓喩の説明を聞いたことが悟ったことなのかということです。外部の人とみなされる人でも、説明を聞けば寓喩の理解はできるでしょう。しかし、内部の人でも同じことですが、説明を理解したから実を結ぶという保証はどこにもありません。説明やその理解の問題ではないのです。イエス様の「たとえ」(パラブル)は、単なる「寓話(寓喩で構成された物語)ではないということです。

 

その「地」が良いのか悪いのかは、実を結ぶかそうではないかという、結果からしか判断できません。実を結ばなかった理由も、あとから説明できるかもしれませんが、それでは手遅れです。もちろん、悟っているだろうか、艱難に負けないだろうか、この世のことに囚われすぎていないだろうか等と自問するためのチェックリストとして使うことはできます。それも大変有用ですが、この「たとえ」の本質は、悪い土地の分析ではなく、「種まき」です。それも、悪い土地を見つけて、それを避けて効率よく種をまきましょうということではなく、種、すなわち神のことばは無差別に与えられているのに、その結果は実を結ばないが、非常に大きな収穫があるかのどちらかという、両極端なものだというものです。

 

ここで、ある意味では普通の話が普通ではなくなってきます。「たとえ」(パラブル)は、一見普通の話の中に異常な要素が含まれていることが多く、それを通して、この世のことを超えた神の国の実相を垣間見ることになるのです。悟れば大きな収穫、悟らなければゼロという以上、まず「悟る」というのはどういうことなのかが重要です。とりあえず、仏教の「悟り」という言葉は横に置いておきましょう。この言葉は、「理解する」と普通に訳しても差し支えのない言葉です。ただし、御国のことばを理解するということは、神の支配を理解するということですから、言い換えれば、神の意志(心)を理解するという意味になります。一見日常的な話を通して、神の心を知ることが必要だということです。これは、ある意味当然のことで、その意味では、律法を含め、聖書のことばはすべて「たとえ」なのです。しかし、いわゆる律法主義者は、律法の文字そのものにこだわり、それが「たとえている」ところの神の心がわかりませんでした。民衆も、イエス様の数々の癒しを体験しましたが、それが示している神の心を知ることにつながったかは別です。

 

イエス様は弟子たちに向かって、あなたがたの目は見ているから、また耳は聞いているから幸いだと言われました。それは、多くの義人や預言者たちが願ってもかなわなかったことでした。では、預言者たちは神の心を知らずに、ただ盲目的に神のことばを語っていたのでしょうか。もちろん、そうではありません。彼らは、神の心に「ついて」語っていたはずです。しかし、それでもそのことばは、やはり「たとえ」だったのです。何をたとえていたかと言えば、それは血となり肉となった神の心であるキリストについての「たとえ」でした。しかし、今や弟子たちは、そのキリスト本人と対面しています。ここに、最大の預言者でさえかなわなかった幸いがあります。キリストを知ること、それが「たとえ」を悟ることなのです。

 

今日、目に見える形でキリストとお会いすることはありません。それでは、再び以前同様、キリストに「ついて」知るだけで、キリストご本人と出会うことはできないのでしょうか。実にそこが問題なのです。「種まきのたとえ」の本題は、「種まく人」キリストと出会うかどうかなのです。その出会いは、ただ神の恵みによって、聖霊の働きを通してのみ可能となります。それは超自然の出来事であるので、また、収穫も通常からかけ離れた豊かなものが約束されているのです。

 

<考察>

1.イエス様は、なぜ舟に乗ってから語られたのでしょうか?

2.群衆にたとえで話されたのは、わざとぼかすことで、彼らが責任を問われないようにする配慮だったという解釈がありますが、どう思いますか?

3.「種まきのたとえ」は、宣教にも応用できるでしょうか?