礼拝メッセージ要約

202188

マタイ福音書1234節から50節(抜粋)

「存在のメッセージ」

 

12:34まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。 

12:35良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。 

12:36わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。 

12:37あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」

12:46イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。 

12:47すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」 

12:48しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」 

12:49それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 

12:50天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

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前回の、聖霊に対する冒涜というテーマの続きです。冒涜というのは、基本的に言葉でするものですから、そのような悪い言葉は悪い心から出ていると言われます。聖書では、「心で信じて口で告白する」というように、心と言葉が一体で語られている所が多く、「言葉に重みがある」世界と言えます。

一方で、「心にもない言葉」というものもあります。文章を棒読みするだけの政治家、ありえない利潤を約束する詐欺師、その他、世間には、平気で嘘をつく人がいます。また、嘘ではないものの、一時的な感情で、冷静な時であれば言わないようなことを口走ってしまうということもあります。自分の思いをうまく言葉にできない人もたくさんいます。

 

この問題は、「心」や「言葉」をどうとらえるかによって、見方が変わってきます。ただ、表面的に心と言葉を見るなら、心と、口から出てくる言葉と食い違うことはあるでしょう。しかし、聖書で「心」とは、「その人を動かしている欲や意図、その人の在り方を決めているもの」を意味します。ですから、例えば、嘘で他人をだまそうと意図を持った人が嘘を言う時に、もちろん、その人の心と言葉は一致しています。心あらずで原稿を棒読みしている時に、原稿の文字ではなく、棒読みという「言葉」、つまりメッセージは心と一致しているのです。ですから、「言葉」とは、その人の在り方が伝えるメッセージということになります。

さらに現代風に言えば、心には表層意識(自覚している意識)だけでなく、無自覚な深層意識もあり、しかも、その深層意識の方が、より強力に人の在り方を左右しています。無自覚な発言(そして行動)も、深層意識の発するメッセージであることが多いのです。

 

人は、存在しているだけでメッセージを発しています。無言であれば、無言であること自体がひとつのメッセージです。ですから、この聖書箇所でいう「言葉」を、その人の「存在のメッセージ」と捉えるならば、そのメッセージ一つ一つが、究極的には神の前に露わになっているということになります。これは、要するに、人は、その全てが神に知られているというのと同じことです。「あらゆるむだな言葉が裁かれる」というのを、迂闊に冗談のひとつも言えないというように解釈する必要はありません。「むだな言葉」の「むだ」とは、「働きがない」という意味です。「実を結ばない」ということと実質同じです。ですから、その人の発するメッセージが実を結ぶかどうかを神は見ておられるということです。もちろん、神は良い実を期待しておられますが、はたして、そのような神の期待に応えられる人がどれだけいるでしょうか。むしろ、神にとって役立たずな自分を自覚するのではないでしょうか。

 

ここに福音があります。ただ何かをしないだけではなく、その存在自体が「働きがない」と言われる者に対して、「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ45節)。ここで「働きのない者」は、「不敬虔な者」とも呼ばれています。「不敬虔」とは、「敬うべきものを敬わない」という意味です。単に実力不足で成果がないということではなく、敬うべき神を敬わず、その存在自体が悪い実しか結ばない者という話です。まさに、その人全体のメッセージが、神を否定している状態であり、神に申し開きをしようにも、どうすることもできないのです。そのような「不敬虔な者」を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされる、すなわち、その信仰が、その人の存在自体が発するメッセージであり、そのメッセージが、いや、そのメッセージだけが、真に「働きのある」「実を結ぶ」ものであり、義と認められる、つまり神に受け入れられるものなのです。

 

この福音は、律法主義者が受け入れないだけではなく、周囲の者、身内からも理解されませんでした。マルコ321節には、「気が狂った」と人が言うのを聞いた身内のものがイエス様を連れ戻しに来たということが記録されているほどです。肉親は尊いですが、イエス様の真の姿を知るには、肉の目ではなく霊の目が必要です。イエス様がもたらすものは、この世のものとは違い霊的なものですから、家族についても肉の家族を超えて霊の家族と呼べるものがあるのです。肉親とは、現代的に言えば、遺伝子が似ている者ということです。それに対して、霊の家族とは、何かが似ている人たちの集まりというわけではありません。(結果的に似ていることはあるかもしれませんが)。そうではなく、「天の父のみこころを行う者」が家族を構成するのです。そして、そのみこころは、一人一人違う形で現れますから、そのメッセージ(言葉)も多様です。しかし、それは多様ではあっても、必ず「福音」の性質を帯びているはずです。天の父のみこころを行っているイエス様の家族は、イエス様と同じ方向に歩む者、すなわち福音の道に歩む者だからです。

 

「肉の家族」は、拡大すると民族になります。民族も固有のメッセージを持っています。また複数の民族で構成された国家も拡大された肉の家族です。すべての集団はメッセージがあり、それらは神の前に差し出されています。聖書はほとんどユダヤ民族の話で、祭司の民として立てられた彼らの栄光と挫折の歴史が描かれていますが、すべての民、集団は、それぞれのメッセージが何なのか自問する必要があります。それは、神の前で実を結ぶものでしょうか。それとも、他を排除し、自らの栄光でしょうか。個人と同様、民族も悔い改め(滅びからいのちへの転換)が求められているのです。そして、それは自力によらず、ただ神の恵みにゆだねることによって可能となるのです。そこに、地上の集団を超えた、キリストの家族が現れるのです。

 

<考察>

1.イエス様を悪霊憑き呼ばわりする人たちの心は、どのような状態でしょうか?

2.どのような時に、心と言葉の不一致を感じますか?

3.自分の民族は、どのようなメッセージを持っていると思いますか?