礼拝メッセージ要約

202181

マタイ福音書1215節から32節(抜粋)

「聖霊第一」

 

12:15イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、 

12:16そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。 

12:17これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。

12:18「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。
わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人にさばきを宣べる。
12:19争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
12:20彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、正義を勝利に導くまでは。
12:21異邦人は彼の名に望みをかける。」

12:31だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。 

12:32また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

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律法学者などの宗教勢力から命を狙われる状態になったイエス様は、そこから立ち去りますが、多くの人々がついてきたので、彼らを癒されました。そして、それを宣伝しないように戒められたのは、以前同様です。

宣教は宣伝ではなく、神の恵みと憐みの実現だからです。ただし、それが所謂「慈善・福祉活動」に留まらないことも、福音書が一貫して伝えているところです。今回の個所では、イザヤの預言が取り上げられ、そのポイントが示されています。(イザヤ書421節〜4節参照)

 

この預言は、同書52章、53章にある預言と共に、「主のしもべ」について語られている部分として有名なものです。ちなみに、53章は十字架の預言として良く知られています。

この「主のしもべ」が誰なのかというのが、当時も現代も争われていることで、その答え如何で、人生観も世界観も全く変わってしまうものです。イエス様につながる者にとっては、もちろんイエス様が「主のしもべ」ですが、そうではない人にとっては、それはユダヤ民族を指しています。(しもべは単数ですが、民族全体を擬人化しているという解釈です)。ただし、イエス様とつながったのならば、イエス様のご自身の民としてユダヤ民族をも「主のしもべ」であるべき存在として受け入れることは可能なのですが、残念なことに、歴史的にはキリスト教国の中に醜い反ユダヤ主義がはびこってしまったのは周知の事実です。

 

さて、その主の「しもべ」は、ギリシャ語では主の「子」とも読めます。その「しもべ」がしもべたる所以は、彼の上に神の霊が置かれているからです。それ以外に、真実のしもべであることを証明するものはありません。

イエス様がいくら悪霊を追い出しても、イエス様に反対する人たちは、それは悪霊のかしらによるのだと執拗に批判するのも、霊的な出来事が、神の霊によるのか、その他の霊によるのかということが根本的な問題だからです。もちろん、ある人が神の霊によって癒しの業を行っていたからといって、それだけで、その人がメシヤであると認められるわけではありません。もし彼が、パリサイ派の決まりを遵守していれば、認められたかもしれませんが、彼らから見て律法を無視しているように見えるイエス様に神の霊が働いているなどということは、断じて受け入れられませんでした。ですから、問題の本質は、神の霊(聖霊)は、人々に自由を与える霊なのか、それとも律法に縛り付ける(律法遵守の力を与える)霊なのかということなのです。

 

このことは、この預言の解釈にかかわります。「主のしもべ」は、異邦人(諸国の民)に「公義」を宣べるとありますが、「公義」とは何なのでしょうか。直訳すると「分ける」という言葉で、裁くいう意味になります。そこから正義と訳されることもあります。この言葉を律法主義の立場から解釈すると、悪(律法違反)を裁くということになるでしょう。しかも、異邦人に裁きを宣告するというのですから、まさに、イスラエルの救世主であり、ローマからの解放者こそがメシヤだということになります。ユダヤ人であっても、律法から外れる者は裁かれることになります。それに対して、神の霊は、慈しみ深い神の霊であり、人々を奴隷状態から解放し、新しい創造をもたらす霊であるという、イエス様の観点からすれば、公義とは、使徒パウロの言うところの「義」を実現する霊であるということになります。その義は、人の義ではなく神の義です。

 

19節、20節の描写は、マタイ福音書のキーワードである「柔和」そのものです。それは、断罪ではなく慈しみであり、争いではなく受容です。しかも、引用元であるイザヤの表現にある「くじけない」という性質が、単なる優しさ以上の底力を表しています。それこそが神の義(正しさ)であり、ただ聖霊の働きによってのみ、明らかになってくるものなのです。この神の義によれば、律法なき異邦人は断罪されずむしろ赦されます。異邦人が彼の名に望みをかけるのは必然です。ユダヤ人であっても、律法から排除された人々も同様に救われます。まさに、主の名を呼ぶ者はだれでも救われるのです。その鍵は聖霊の働きです。

 

当時、悪霊の追い出しは広く行われていたようです。しかし、肝心なのはそれが人々を解放していたかどうかです。聖霊であれば、人々は解放されるのです。その聖霊の働きが、神の働きの実質であり、それに触れられることによって神の支配が現実のものとなります。聖霊によって解放の業が行われている時に、聖霊を冒涜する、すなわち侮辱するならば、赦されることがないと言われています。神を冒涜しても赦される(マルコ福音書参照)、人の子(キリスト)を冒涜しても赦される、しかし聖霊を冒涜することだけは赦されないのです。

 

神やキリストを冒涜しても赦されるというのはどういうことでしょうか。人は様々な形で神やキリストの悪口を言います。しかし、たいていは、神やキリストに「ついての」悪口です。というのは、人は生まれつきのままでは、神もキリストも本当の意味では「知らない」からです。つまり、出会ったことがないのです。ペテロなどの弟子たちは、地上のイエス様のそばで生活しましたが、それだけでは、キリストの真の姿は知りませんでした。ですから、彼らは後に赦されました。神についても同様です。人がもし神と直接対面して、なお神を侮辱し続けるというのは想定し難いことです。(悪魔はできるのかもしれませんが)。

 

しかし、聖霊は、今、目の前で働いている神の現実ですから、神やキリストに対してのような、「無知」のままに冒涜するということはできません。そして、その働きとは、恵みによって人を赦し受け入れるという働きですから、それを拒否するだけでも恵みを拒否することになるのに、その上あえて恵みを侮辱するということは、自ら救いを完全拒否したことになってしまうのです。それが、今日具体的にどのような形で起こるのかは一概には言えません。ただし、神の恵みよりも、人の義(正しさ)を前面に立てようとする人間の罪がいかに危険なものなのかは、しっかりと覚えておきたいものです。

 

<考察>

1.どのような時に「正義」を求めますか?

2.「主のしもべ」は声を上げないのに、どうして人々に義が伝わるのでしょうか?

3.だれかを「冒涜」したことはありますか?