礼拝メッセージ要約

2021725

マタイ福音書121節から14節(抜粋)

「安息日」

 

12:1そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。 

12:2すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」 

12:3しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 

12:4神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。 

12:5また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。 

12:8人の子は安息日の主です。」

12:9イエスはそこを去って、会堂にはいられた。 

12:10そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。

12:11イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 

12:12人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」 

12:13それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。 

12:14パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

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イエス様の与える「休息」の約束に続いて「安息日」についての論争が繰り広げられます。

イエス様の、この安息日についての姿勢が引き金となり、パリサイ人たちはイエス様を滅ぼそうと相談するようになりました。イエス様とパリサイ人との決定的な亀裂が起こったのです。

 

安息日は、イスラエル人にとって、神との契約のしるしでした。つまり、安息日を守ることで、自分たちが神の民であることを証ししていたのです。ですから、彼らが安息日を文字通り「死守」するのは理解できることです。そこで問題となるのは、「安息日を守る」というのは、どういうことなのかということです。

 

そもそも「安息日」とは、週の最後の日のことで、その意味はおもにふたつあります。まず、天地創造を完成された神が七日目に休まれたことを覚えることです(出エジプト記2011節)。もう一つは、ヤハウェがイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放したことを覚えることです(申命記515節)。つまり、神の創造と贖い(救い)を記念し、喜ぶ日だということです。具体的には、一切の労働を休むということが求められています。

 

律法主義に陥った人々は、この安息日を労働禁止という規則としてしまいました。規則は厳密でなければなりませんから、安息日の開始・終了の厳密なタイミングの決め方から始まり、そもそも何が「労働」なのかを示す詳細なリスト作りが行われました。万が一にも違反することがないように、聖書に書かれているよりも厳しい基準も設けられました。たとえば、律法では安息日に麦の穂を手で摘むのは許されていましたが、パリサイ人は違反だと言っています。医療行為も命にかかわる緊急のもの以外は許されませんでした。彼らにとっては、その厳しさが神への熱心さの証しでしたから、彼らに同調しないイエス様を受け入れられませんでした。

 

マタイ福音書では、彼らの聖書理解がそもそも一面的であることを、いくつかの事例をあげて示しています。この福音書では、イエス様は律法を廃棄するのではなく成就するという側面が強調されているとおりです。ただ、律法解釈の異同自体の問題よりも、イエス様の論点はよりはっきりしています。何が労働として禁止されているかではなく、「安息日に癒すこと」はそもそも良いことなのかという問題です。安息日が創造の完成と奴隷からの解放を覚える日だという原点からすれば、癒すのが良いことだという答えは明らかです。緊急の場合だけ、「しかたなく」癒すというのではなく、積極的に癒し、神の解放の業を喜ぶべきなのです。

 

それでは、そもそも「働いてはならない」と言われているのは何故なのでしょうか。それは、「安息日」は自分のわざを休む日であるというのがポイントです。比較すべきは、「自分のわざ」と「神のわざ」であり、「労働」と「休暇」ではないということです。創造のわざが完成したことを記念するというのは、創造が神のわざであり、人のわざではないということです。もちろん、人間はいろいろなものを作りますが、人間の制作とは、神から供えられたものを「加工」することです。備えられていないものは、どうすることができません。ただし、その加工は、神が定めた秩序に従わなければなりません。そうでなければ、それは破壊になってしまいます。実際、罪に堕ちた人類はそのような破壊を続け、神による新天地の創造を待望しなければならない状態にあります。安息日は、そのような自身の状態を顧み、あらためて神の創造を覚え、み旨を求める時として与えられたのです。

 

また、出エジプトを覚えるということは、神の贖い(ご自身のものとして解放してくださること)を覚えるということです。この出エジプトも、徹頭徹尾、神のわざであり、救いはあくまでも神の恵みとして与えられたものでした。ですから、「創造」の場合と同様、「救い」も神のわざであることを覚えることが安息日の主旨なのです。

安息日に良いことをするのは正しいというのは、そのような文脈で理解する必要があります。良いことをしていれば安息日などあってもなくても同じだということではありません。

 

「安息日」は言うまでもなくモーセ律法の規定ですから、異邦人は対象外です。しかし、安息日が示していること自体、すなわち、創造と贖いは神の恵みであることという真理は普遍であり、異邦人にとっても同じことです。私たちにとって「安息」は週の特定の日を休暇とすることではなく、神の恵みの中で生きるということです。ですから、そのような意味では、全ての日が安息日であるとも言えます。(週の初めの日が「主の日」と呼ばれているのはキリスト復活の日という意味であり、安息日とは関係ありません)。ですから、良いことをするのは、いつでも正しいことは当然ですが、ポイントは、真に「良いこと」とは「神のわざ」であるということです。見た目は人のわざであっても、それは、神のめぐみの現れなのです。

「人の子(キリスト)は安息日の主」ですが、もちろん、すべての日の主です。私たちは、このキリストのもとに留まり、神の恵みの中に生きるのです。

 

<考察>

1.規則の背後にある意図を知るためには何が必要ですか?

2.自分のわざを休むには何が必要ですか?

3.マルコ福音書の類似箇所(223節以下)と比較してみましょう。